2019年08月26日

『クィアと法』

 『クィアと法』を読む。序と9つの章からなる。
 実によく書けている。「クィア」もしくは「LGBT」研究もようやく政治イデオロギーから脱却してまともな学問になって来たと思う本である。
 きちんと文献を提示しデータを提示し、時代背景を整理し、それからようやく執筆するとなると、それなりの時間がかかるが、自己体験と正義のイデオロギーで言いたい放題言うのにはほどんど時間はかからない。そこで、どうしても特殊正義のイデオロギーの本や感情優先の本が先行することになる。
 地道に研究している人は不利である。しかし、ようやく、そうした人たちに日が差してきた。石田氏、三橋氏の史料・資料を丹念に読み解く姿勢は相変わらず見事である。このような人たちが高く評価されなくてはいけない。
 石田氏、三橋氏はむろんのこと、志田氏、金田氏、関氏と、なつかしい名前が出てくるのもいい。みんな頑張っているんだな、と感心する。嬉しい限りである。(2381)
posted by 矢島正見 at 00:48| 我流雑筆

2019年08月25日

『ももこのいきもの図鑑』

 さくらももこ『ももこのいきもの図鑑』を読む。本書は漫画家さくらももこのエッセイ集である。
 孫が持ってきたもので、読んでみると、なかなか面白いので、読み切ってしまった。文章がよくできている。一つひとつのエッセイそれぞれに添えてある絵もなかなか良い。「おどるポンポコリン」はさくらももこ作詞とのこと。才能がある。
 こういう場合はWikipediaを見るに限る。見ると、随分とエッセイ集を出している。しかし、残念なことに、2018年8月に亡くなられている。53歳だったとのこと。(2380)
posted by 矢島正見 at 14:21| 我流雑筆

2019年08月24日

お盆

 お盆に孫たちがやって来た。3泊4日のお泊りである。しかし、その間、私は体調を崩してしまった。暑さと冷房と食い過ぎ・飲み過ぎである。16日は16人が集まった。大人9人、子ども7人である。(2379)
posted by 矢島正見 at 15:05| 我流雑筆

2019年08月19日

『朱夏』D/5(完)

 しかし、一日二杯の高粱粥だけの生活、ボロボロの服一枚だけでの一年以上の生活、風呂に全く入らない一年以上の生活、狭い空間に数家族が共同しての息苦しい生活(一人に対して畳一畳の空間すらない)、虱・ダニ・蚤に悩まされての生活、自分の・要の・美耶の死ぬのではないかと思うほどの病気、栄養失調になり躰中皮膚病に侵されていながらも生きている美耶、これらの記述は実にすごい。
 そしてさらに圧倒されるのは、要・綾子・美耶の家族以外の人たちの生き様の記述のすごさである。満州に残された人々が皆同じでなかったことが実によくわかる。敗戦後も贅沢に暮らしている人、内地に帰りたくない・帰れない人たちの存在、殺されて・栄養失調で死んでいく人たち、みなすごい。生きるためには、どんなことでもする、どんな汚いことでもする、そうしなくては生きていけない事実に直面した人たちの生き様、すべてが詳細に明確に描かれている。
 一年半ほどの期間の物語ではあるが、戦中・戦後を中国大陸で生きた人びとを描いた物語としては最高傑作の一つではないかと思える。今一つ取り上げるとしたら『人間の条件』であろうが、それ以上の傑作である。
 『櫂』『春燈』と苦労して読んできた甲斐が、ここでようやく報われた。(2378)
posted by 矢島正見 at 12:58| 我流雑筆

2019年08月17日

『朱夏』C/5

 着いてから、後悔する。しかし、帰ろうとはしない。夫だけ単身赴任すればよいものを、綾子は赤子と共に満州の地で生活する。帰ろうという意識すら湧いてこないのである。父への甘えた生活から夫にすがっての生活への変容である。
 満州の地で綾子は19歳となり、20歳となる。最初の頃の綾子は、水が住民にとって限りなく貴重であるにもかかわらず、一人風呂を沸かして入る。ごく、当たり前のこととして。多くの人の反感に遭うなどと考えることもない。思い浮かべることさえないのである。
 こうした綾子に次々に難題が降りかかる。そして、ソビエト軍の侵入であり、中国人の暴動であり、日本の敗戦であり、逃避行である。ようやく、綾子はまともになっていく。当時としてはしっかりした部類に入る20歳の女性・妻・母親になっていく。
 それにしても、夫の要は出来過ぎである。それ故に最後の最後まで、要がいないと自分も子(美耶)も生きていけない、という認識から抜け出せない。また、内地に帰れば金のある親がいる、という意識にすがりつく。内地に帰れば、何もかもうまくいく、という考えである。内地が・土佐がどうなっているのかは考えない。希望にすがりつくというのはこうしたことと、納得する。
 しかし、そんな綾子も、栄養失調で、がりがりに痩せ、全身皮膚病で、まもなく2歳だというのに一言も話さない美耶のことだけは、気がかりでいる。
 私も、内地に帰ってからの美耶の成長を知りたいところである。岩伍が生きているかも知りたいところである。昭和20年から23年頃までの続編が欲しいところである。(2377)
posted by 矢島正見 at 13:24| 我流雑筆

2019年08月14日

『朱夏』B/5

 この時代はこんな認識だったのか、と驚きと共に物語は始まる。
 綾子17歳。代用教員。金銭的にはすべて父親に依存しておきながら、意識としては父親から逃げたい、独立したいという思いに、何の矛盾も感じない娘(『春燈』の最後、そして『朱夏』の始まり)である。
 綾子は教師の要と知り合う。そして父親からの独立を求めて17歳で結婚し、18歳で子どもを産み、生後50日にて、夫と共に満州に行く。夫が満州開拓団の教員になるためである。父親からの独立は夫への依存である。

 時は昭和20年3月。ここで驚きである。昭和10年の3月の誤りではないかと、一瞬疑う。5年いや10年、時代がずれているのではないかと、思わざるを得ない。
 硫黄島で日本軍は玉砕し、本土はB29の爆撃が連日連夜続き、すでに敗戦は時間の問題、目と鼻の先にあり、日本が敗戦すれば、大陸に渡った日本人の命はまったく保証されないという時代そのものの中での満州行きである。
 しかし、この時代錯誤の認識は、綾子と要だけではなく、大土佐満州開拓団の認識でもある。満州に行けば空襲はない、満州に行けば食べ物は豊富にある、今よりも豊かな生活ができる、そして教員は3倍の給料がもらえる、ということである。
 まさに、目先の明日だけの欲望で生きていたことがわかる。そして「神国日本が負けるわけない」という都合の良い考えが、都合が良いからこそ信念と化すのである。
 この頃になると、すでに満州にたどり着くまでが大変である。以前の倍以上の時間を要し、さらに途中撃沈されて海の屍になる可能性が高い。それでも行くのである。

 実際、昭和20年5月まで、満州開拓団は派遣されていたとのことである。沖縄上陸直前までである。国家がおかしいだけでなく、国民もおかしかったのだ。まともな判断ができていなかったと言わざるを得ない。戦争は国家だけの責任ではない。(2376)
posted by 矢島正見 at 00:52| 我流雑筆

2019年08月11日

『朱夏』A/5

 しかし、『櫂』も『春燈』もスケールが小さい。家業が下賤の芸妓・娼妓紹介業という時代的問題性は設定されてはいるものの、また戦前の学校の体質が描かれてはいるものの、時代を真っ向から捉えていない。しかもいささか、ご都合主義的な問題設定である。
 ところが、この『朱夏』では、見事に時代が描かれている。満州開拓団の生活の一部始終が、また時代の流れの中でほんろうされる開拓団の人たちの生き様が、実に見事に描かれている。
 特定の正義イデオロギーに偏ることなく、また悲喜劇を強調してのお涙頂戴主義でもなく、最初から最後まで、綾子の目を通しながらの描写でありつつも綾子の視点に思い入れることなく、作者・宮尾登美子の時代視点を保持している。『坂の上の雲』の司馬遼太郎に匹敵する。(2375)
posted by 矢島正見 at 12:54| 我流雑筆

2019年08月09日

『朱夏』@/5

 6月下旬、宮尾登美子の『朱夏』を読んだ。『櫂』『春燈』『朱夏』の三部作の最後の作品である。
 文庫本にして620頁を4日間で一気に読んだ。読み始めると止められない面白さ抜群の大長編である。

 『櫂』は女の厭らしさにげんなりしつつ読んだ。『春燈』では、何だこの娘は、とムカつきながらも、読み進めた。この『朱夏』は夢中になって読んだ。
 『櫂』で宮尾は作家としてデビューした。『鬼龍院花子の生涯』が映画化されたことにより、流行作家となった。そしてこの『朱夏』で大作家となった、と言えよう。

 『櫂』では、嫉妬に狂う女の性(さが)と亭主関白の男の勝手と好き勝手に生きる幼女・童女のわがままが描かれているに過ぎない。ある種の「異端・異色ホームドラマ」である。客観的文体であるにもかかわらず、妻(喜和)の認識と作家・宮尾登美子の認識が多分に重なる。思い入れの激しい作家意識で書かれている。
 したがって、共感する人にとっては、感激する小説であろうが、一歩離れて読む人にとっては、こってりとした同じ味付けの料理を、これでもかと卓に出す料理店のような感じを受ける。新人の書いた書き込み過ぎの小説である。

 『春燈』では、作家としての技量が格段に上がっている。目いっぱいに書いたという作家としての意気込みは薄まるが、主人公の娘(綾子)の認識と作家・宮尾登美子の認識とが分離されて描かれている。綾子の喜怒哀楽を感情たっぷりに描いたとしても、それはあくまでも綾子の思いであるということを位置付けている。ストーリー展開のテンポもよく、作家として完成されている。(2374)
posted by 矢島正見 at 13:42| 我流雑筆

2019年08月02日

暑中お見舞い

暑中 お見舞い 申し上げます。

梅雨の最中は、随分と涼しく、今年は冷夏かな、なんて思っていたのですが、とんでもない間違いでした。
梅雨があけたとたんに猛暑です。真夜中になっても暑いです。
どうか、ご自愛のほど、お願い申し上げます。
私もこよなく「自愛」します。

私は、エアコンも扇風機もない生活ですので、本当にエコです。窓から入ってくる風と団扇だけです。昼に前日の残り湯の風呂に入り火照った躰を冷やせば、それでよいのです。
日本国民すべてが私のような生活をしていれば、エネルギーは問題になりません。原子力発電もいりませんし、火力発電も減少できます。

「囲む会」では、中大(5/11)や大正大(6/29)のOB・OG生の皆様、ありがとうございました。用事のために参加できなかった方には、ここでご挨拶させていただきます。

引退すれば「全日空」「サンデー毎日」とよく言われますが、そうでもなく、週に3回ほど出歩いております。ほどよい日々ではないかと思います。

あとの日々は、何やら怪しいものの執筆をしております。どのようなものか、数年後にわかることと思います。この我流雑筆も怪しい執筆です(これが意外と時間を要します)。

あと、3年間は気難しい日々を過ごす気難しいじじいであると思います。しかし、書きたいことを書き終えたら、そこで執筆活動は終わりとします。さらに、いろいろな役も終わりにしたいと思います。

そして、その後は、鴨長明のような、兼好法師のような、島流しになった西郷隆盛のような、お役をすべて解任されたときの勝海舟のような、戦後の永井荷風のような、晩年の古今亭志ん生のような、そんな生活に入ろうかと思っております。

ところが、問題もあります。耳が聞こえません。テレビも画面を見るだけで、音声はほとんどわかりません。ですから、電話はダメです。
カラオケですら、演奏の音が近頃わからなくなってきております。

まあ、そんなことですので、今しばらくは、ごひいきのほど、お願い申しあげます。(2373)
posted by 矢島正見 at 21:41| 我流雑筆

2019年07月29日

『春燈』B/3(完)

 幼少時から小学生に至るまで、わがまま放題で、自分勝手で、相手のことは一切考えることなく、母親は何でも自分のことを叶えてくれる存在であり、岩伍と年の離れた兄以外は全て自分より劣っており、自分より下の存在であり、自分の言うことに従う存在と思う小皇帝として綾子は描かれている。
 私だったら、こんなガキがいたら張り倒してやるのだが、岩伍ですら手を挙げたことがないという(他人が自分のことをひっぱたくなどあり得ないと信じ切る)少女が綾子である。
 小学校の高等科でも、友だちもできるが、自分に従う友達には優しく、無視したり逆らうものならたちどころに怒りを爆発させる少女であり、学校で一番の成績で、一番目立つ存在でないと気が済まない小皇帝であることには、まったく変わらない。
 文学や芸術の才能はあり、涙はよく流すが、人の苦労にはまったく鈍感な、多感な思春期を生きる小皇帝である。周りの生徒たちの中には苦労して生きてきた少女が多く、それに感化されてもよさそうなものなのだが、ただ新鮮に驚くだけの文学的感性での感動であり、自己の生活の反省も、自己の生活を変えようとする意志もない小皇帝である。
 父親の岩伍に逆らい自分の人生は自分で決めるというカッコイイ理念を抱きつつも(捨てぜりふを吐きつつも)、衣食住を受けることは当然のことと受け入れ、ぜいたくな暮らしですら当然のことと受け入れ、どんな人生を選ぼうとも金を出すのは岩伍であり、その人生を切り開くのも岩伍であり、開かれた道を進むのが自分の人生であると、全く疑問に思わない女皇帝である。
 したがって、小説の終わりに至っても、岩伍に逆らっても、経済的自立など到底できず、そうした努力をしようともせず、そしてできないのを当たり前と思う、自立も自律もない女皇帝であり続ける。
 最後に至ると、不便な貧しい生活を生きるが、それは今までにない生活を新鮮な感覚で味わっているだけであり、そんな生活を数か月すら続けられない女であることに変わりなく、好みの男に求婚され、家の反対を押し切ってでも結婚を考えるのだが、男と女の性生活はまったく意識外であり、子どもを産み育てることも意識外である。

 宮尾登美子は、よくもまあこんな女を描いたものだと感心するのだが、このモデル(綾子)が宮尾登美子自身であることを思えば納得するし、よくもまあこんな小説がベストセラーになったものと感心するのだが、書かれた時代がバブル経済時代であったことを思うと、これもまた納得する。
 坪井栄の『二十四の瞳』の子どもたちとほぼ同時代であるが、まったく異なる子ども像である。(2372)
posted by 矢島正見 at 18:05| 我流雑筆

2019年07月27日

『春燈』A/3

 『櫂』に比べると『春燈』は読みやすい。内容が読みやすいというのではなく、物語の展開が早く、テンポがよく、読者を意識した展開となっているからだ。作家としての宮尾登美子が円熟化してきているのだと思える。
 したがって、『櫂』では、いらいらしながら苦痛をもって読んでいったが、『春燈』ではあきれ返りながらも次の展開を期待しながら読んでいくことが出来た。
 読み始めてから読み終わるまで長い期間がかかったのは、ひとえに私個人が忙しかったからというに過ぎない。
 『櫂』が母(喜和)の視点・認識・感情からの描写で話が進んだのに対して、この『春燈』は、娘(綾子)の視点・認識・感情からの描写で話が進んでいく。その点、喜和善人・岩伍悪人という設定は相対化されていて、読んでいて抵抗感が薄れ、私にとっては読みやすくなっている。
 『春燈』の物語の軸は、綾子(娘)対岩伍(父)であり、綾子にとって、物語の初めから終わりまで最大の敵として描かれている。
 綾子の幼少時から数えで19歳の3月(満であるなら、17歳か誕生日が来ていれば18歳)まで、結婚直前までの綾子個人史である。(2371)
posted by 矢島正見 at 14:56| 我流雑筆

2019年07月25日

『春燈』@/3

 宮尾登美子の『春燈』を読んだ。
 『櫂』を読み終えた後、多忙な日々を送り、この『春燈』に手を出すことはなかったが、4月下旬ころから読み始めた。しかし、「第一章」を読み終えて挫折した。『櫂』よりも読みやすかったのだが、それでも駄目であった。
 そして、5月から半藤一利『幕末史』を読み始めた。今までならば、半藤の書は3―4日で読み終えるのであるが、この書は5月中旬まで読み続けた。実に面白い本であったのだが、多忙ゆえ、読み終えるのにそれまでかかった。
 その後も忙しい日々が続いた。その間、『サイゾー』を読み、『司法犯罪心理学』を読んだが、『春燈』はそのまま放置していた。数多くあった仕事がようやく残りは大きな二つとなり、その仕事の合間になにか読もうと思うようになり、ようやく6月に入ってから、再度、『春燈』を読み始めた次第である。(2370)
posted by 矢島正見 at 13:10| 我流雑筆

2019年07月22日

『櫂』B/3(完)

 宮尾登美子の小説を読むのは、これで2度目である。最初に読んだのは『鬼龍院花子の生涯』である。この小説は、それなりにすっきりしていた。物語のテンポも速かった。
 この小説は1982年に文春文庫から出ており、1982年に映画化されているので、おそらく1983-4年に読んだものと思われる。映画での夏目雅子の「なめたらいかんぜよ」というセリフが当時評判となった。それに触発されて読んだという記憶があるのだが、映画自体は観ていない。この映画は夏目雅子を永遠の女優にした作であり、宮尾登美子を売れっ子の作家とした作である。
 今回の『櫂(かい)』は1973年に出されたものであり、『鬼龍院花子の生涯』よりも早く出版されている。しかし、『鬼龍院花子の生涯』が映画化されなかったら、そして読まなかったら、私は決して『櫂』は読まなかったであろう。
 この小説は三部作(ないしは四部作)と言われている。あとの二部の文庫本を持っている。したがって、読もうと思えばいつでも読める。しかし、読むか否かはわからない。超忙しい最中に読むのでは、さらに頭を疲れさせるだけである。藤沢周平のような短編小説がいい。(2369)
posted by 矢島正見 at 18:49| 我流雑筆

2019年07月20日

『櫂』A/3

 宮尾登美子の小説は実にねちっこい。ひと言で済むことを数頁にかけて描写する。それは自然主義の事実描写ではなく、ミクロな私的な認識・意識・感情描写である。
 それは長塚節や田山花袋とは全く違うものである。かと言って、林芙美子のような感情丸出しの私小説でもない。完璧に構成された物語が展開されている小説であるが、にもかかわらず、じれったくなるほどの描写であり、読むのが面倒になる。
 モーパッサンの『女の一生』を高校生時代に呼んで、なんでこんなものを最後まで読んでしまったのかと後悔したが、『櫂』は日本版女の一生である。男では到底書けない、女の怨念の生涯を、これでもかと言わんばかりに描いた小説である。恨んだ女の立場に立っての物語の展開であり、亭主の「岩伍」が哀れにさえ思えてくる。
 岩伍にとっては、ひどい女と結婚したものだと、おそらく後悔したに違いない。にもかかわらず、その妻(喜和)は、自分は夫の犠牲者と思い続けている。子ども(綾子)を歪んだ母子愛によって育て、まったくの反省もない。夫に従っているようでいて、我を通し続け、改めることがない。実に頑固である。
 当時(大正時代)としては、下賤の女売買(芸妓・娼妓紹介斡旋業)の男としては(岩伍はそんな中でも実に誠実であり立派である)ごく当たり前に妾をつくり、妾に子を産ませたということを、実に一大事として恨み続ける女の視点であり、時代認識とは異なる現代の風潮の認識がかぶさった、どろどろとした小説である。
 三人称の文章のきちんとした文体であって、決して私小説ではないが、一人の女の視点から描いた主観小説である。
 内容は面白いのだが、そして読ませるのだが、うんざりしてくる。まるで今はやりのこってりとしたスープのラーメンである。「そこがいい」という評論家もファンもいるのだろうが、私にとっては、細めんの醤油味で「シナそば」と称される、さっぱりとした味わいのほうがいい。横浜系ラーメンはダメである。(2368)
posted by 矢島正見 at 12:48| 我流雑筆

2019年07月18日

『櫂』@/3

 宮尾登美子『櫂(かい)』を読む。
 この本は、2度読むのを挫折した本である。購入した文庫は平成11年6月となっているので、それ以降に2度挫折したことになる。最初の、楊梅(やまもも)売りのことから始まり、緑町の光景を描いた場面まで読んで、2度とも挫折した。それ故、「やまもも」という言葉だけ記憶に残った。
 今年の2月中旬から3度目の挑戦として、読み始めた。そして4月初旬でようやく読み終わった。50日ほどかかって、読み終えた次第である。
 これほど長い期間をかけて読んだ本はごく稀である。大概は挫折して終わっている。実は、今回も挫折するのではないかと思っていた。
 2月中旬から実に忙しくなった。それが4月になっても続いた。こういうときは、いつも挫折していた。(2367)
posted by 矢島正見 at 15:03| 我流雑筆