2020年07月12日

書き込み2500回

 「我流雑筆」の現在のアクセス回数は200,884回。そして書き込みの回数は2500回に達した。よくもまあ続いたものである。
 この分では、ボケるまで、読むことと書くことは続くのではないだろうか。(2500)
posted by 矢島正見 at 18:30| 我流雑筆

2020年07月10日

『浮世絵尽くし』

 『浮世絵尽くし―横山実の浮世絵随筆集―』を読む。横山氏から送られてきた。
 横山氏は犯罪社会学者でありつつ、浮世絵収集家であり、浮世絵研究家である。その氏が折に触れて書いた随筆を集めた書籍である。
 全92頁という小冊子風ではあるが、上質の紙を用いて、浮世絵がカラーで掲載されている。実に贅沢な書である。
 内容は、浮世絵に関する自分史とイベント開催の追憶記、そしてある浮世絵をその道の専門家が本物として鑑定したことに対しての疑問・批判と、多岐にわたっており、一冊にまとまると読み応えがある。素人の私にとっても、偽であるか否かの論述は推理小説風であり、極めて挑戦的な興味深い内容となっている。
 しかし、もっと贅沢にしていただきたかった。大半の浮世絵が小さすぎる。ここまでやったのだから、さらに、絵の配置を工夫しながら、掲載の浮世絵をもっと大きく提示して、鑑賞にも耐えられるものにして欲しかった。「読む」だけでなく「観る」という本であってほしかった。全150頁くらいになっても、豪華版にしていただきたかった。
 なお、横山氏の解説付きで『横山実所蔵浮世絵』を豪華版で出すのもよいと思う。
 蛇足ながらひと言。誤字脱字が11カ所見つかった。雑誌の編集を長年行なってきているので、悪い癖がついてしまい、ついつい誤字脱字が気になって数えてしまう。ご海容のほどを。(2499)
posted by 矢島正見 at 18:46| 我流雑筆

2020年07月06日

記憶喪失、そして怪我

 怪我をした。おでこの右にたんこぶが出来、内出血した。
 夜、と言っても8時ごろ、酔って家路を歩いた。途中、しばし休息をと思い、寺の石段を登り、荷物を石段に置いた。
 そこまでは記憶がある。言い換えれば、そこから記憶が無くなった。
 気づいたとき、頭が痛いと思った。ハッと目覚めたのではなく、朦朧として、しばらくの間、「頭がいてえな」と思いながらも、ボーッとしていた。そして、ようやく目を開けた。
 一瞬「ここはどこだ」と思った。草の中にいた。仰向けになって横たわっていた。そしてようやく思い出した。
 頭を起こすと、胸から上は草の土手で、胸から下は石段だった。おでこをさすってみると、大きなこぶができていた。
 荷物を持って、よたよたと石段を下りて、家路に着いた。記憶を失ってから家路に着くまで、およそ1時間ほどであった。
 荷物を置いて、さて座ろうか、とその時に、足を踏み外したのかもしれないし、荷物を降ろして、頭を上げたときに立ち眩みに陥ったのかもしれない。いずれにせよ、「バカは死ななきゃ治らない」と同じに、「酔っ払いも死ななきゃ治らない」である。(2498)
posted by 矢島正見 at 23:29| 我流雑筆

2020年07月03日

『近代都市下層社会 T U』

 草間八十雄著・磯村英一監修・安岡憲彦責任編集『近代都市下層社会 T U』を読む。
 『近代都市下層社会 T 売笑婦、寄子、被差別部落、水上生活者』(1990年)、『近代都市下層社会 U 貧民街、浮浪者、浮浪児・貧児』(1990年)、全二巻・総頁数1492頁。

 『近代下層民衆生活史 T U V』の続編である。今回は、復刻版ではなく原本を編集し直してあるので、きれいな活字であり、新漢字・新仮名使いなので、読み易かったが、字数が詰まっているので、文字数からすれば、『近代下層民衆生活史』とほぼ同じである。
 内容が多分に重なっているが、こちらのほうでは新しいデータも含まれており、今までのデータの積み重ねで論じられている。
 基本的な知識は既に『近代下層民衆生活史 T U V』で理解していたし、大まかなデータと時代状況が分かっていたので、本書は復習・再理解ということで、新しい発見はさほどなかったが、理解を深めることでは最適であった。

 最初に読んだ『近代日本のどん底社会』は、これら全三巻と全二巻とを合体させ再編集した、面白いところ取りの書籍だったのだ。

 この草間八十雄の全集は、ぜひ読みたいと思いつつ、とても手が出ず、どうしようもなく、放置していたものであるが、『社会学としての犯罪社会学』の執筆を完成させたので、ほっとして、しかも、新型コロナウィルスの騒ぎで、家でゴロゴロしていなくてはならなくなったので、「それならばいっそのこと、この間に読み切ってやれ」とばかりに、読み始めたのである。
 この時期、時間ができたならば、その時間を無駄にせず、日頃できないことを大いにやるべきである。特に高校生や大学生は。もし、私が高校生で、この時期に直面したとしたら、日本文学全集全巻を読み切る、といった考えに囚われたのではないだろうか。

 なお、読み始めたのは4月18日、読み終えたのは6月5日。ほぼ50日間かかった。約4000頁を50日間なので、平均一日80頁である。もちろんその間、いろいろな雑務に追われている。(2497)
posted by 矢島正見 at 12:37| 我流雑筆

2020年07月02日

『近代下層民衆生活史 T U V』

 草間八十雄著・磯村英一監修・安岡憲彦責任編集『近代下層民衆生活史 T U V』を読む。
 『近代下層民衆生活史 T 貧民街』(1987年)、『近代下層民衆生活史 U 娼婦』(1987年)、『近代下層民衆生活史 V 不良児、水上労働者、寄子』(1987年)、全三巻・総頁数1933頁。
 様々なところで執筆した、調査報告・実状報告・講演記録・解説・書籍・等を集大成した復刻版である。
 同じ記述が至るところに出てくる。復刻版である故、印刷がかなり悪く、旧漢字・仮名であり、隠語が多出し、実に読み辛かった。(2496)
posted by 矢島正見 at 13:40| 我流雑筆

2020年06月27日

『近代日本のどん底社会』

 草間八十雄著・磯村英一監修・安岡憲彦責任編集『近代日本のどん底社会』(1992年)を読む。
 550頁の大著。新型コロナウィルスの影響で、孫が我が家に来てパソコンを使用するので、それならばということで、読みふけった。こうして、読了するのに、8日間を要した。

 難解な本ではない。明治後期から昭和初期までの(特に、関東大震災後から昭和五年まで)の売春・貧民の生活が克明に記されている。
 社会主義イデオロギーの書ではないし、弱者救済直訴の書でもないし、政治政策批判の書でもない。文献に基づき、資料に基づき、自ら行った調査に基づき、淡々と記録・記述した書である。データ数値もひっきりなしに表れるし、観察調査や聞き取り調査もある。
 しかし、単なる調査データの提示ではない。社会政策のための弱者救済のための実証主義に徹した貴重な調査報告書である。
 マクロな視点からのミクロな分析の本書の主人公は、時代そのものであり、時代のなかでほんろうされつつも生きて死んでいった人びとである。

 磯村英一監修であることがよくわかる。我が国におけるこうした類の最高の研究者は、「横山源之助(明治期)⇒草間八十雄(大正・昭和初期)⇒磯村栄一(戦中・戦後期)」である。
 ただし、本書の監修では、磯村は名前を貸しただけであろう。実際のすべてをやったのは安岡憲彦と思う。

 「目次」の一部を記してみる。
 「一 売られゆく女 「売られゆく女の稼高とその所得」「時代を通じてみる売笑制度」「売笑婦紹介制度と需要状態」「どん底の女の一生」「売笑哀史 埋葬娼婦 二万人」」。
 「二 どん底のくらし 「どん底生活に喘ぐ人々」「東京における細民の生活」」。
 「三 闇に漂う人びと 「闇底を漂う浮浪者の売淫と賭博」「星も凍る寒天下の野宿者」」。
 「四 どん底の子どもたち 「細民街の子殺しと乞食の子」「乞食芳公の結婚まで」」。 「五 犯罪の世相「生業の確定と結婚」「私と殺人魔川俣の関係」」。
 以上である。(2495)
posted by 矢島正見 at 17:45| 我流雑筆

2020年06月22日

続『悪人列伝 近代篇』〈E明治時代〉


 「高橋お伝」。これのどこが悪人なのかわからない。美女であり、妖艶な魅力たっぷりの女であり、淫乱な女であり、殺人者である、ということ以外取り立てて、論じるものはない。明治初期のマスコミが大衆受けに好んで書き立てたに過ぎない。マスコミが創った「毒婦言説」である。
 この程度の女なら、戦前でも戦後でも、いくらでもいたことであろう。ただ、チンコを切らなかっただけである。
 しかし、三角関係のもつれで、女が女を殺すときは、女性性器も乳房もぐしゃぐしゃに刺して、二つの乳房は切り取り、女性性器もえぐり取るのだから、チンコ切り以上である。まさに猟奇殺人である。

 「井上馨」を読むと、幕末とは、まさに贈収賄と公金横領と正義の理屈とテロが当然のごとく行なわれた時代と言い得る。民衆にとって幸せな時代では決してない。特に、長州藩は正義あふれた汚い連中のたまり場のような観がする。
 長州藩では、真面目な武士は殺され、追放され、滅びていき、追放し滅ぼした連中が明治維新の立役者になったということである。
 正義のためならば邪魔者は殺すという政治観であり、それは、5.15や2.26へと引き継がれていった革命・クーデターを引き起こす人間像である。長州精神が大東亜戦争まで引き継がれていったのである。
 大村益次郎以外はどうも好きになれない。

 これにて『悪人列伝』(全四巻)終了である。読んでみると、海音寺潮五郎には歴史社会学的な発想があったことがわかる。歴史上の人物を美化して描いていないところが実によい。(2494)
posted by 矢島正見 at 17:30| 我流雑筆

2020年06月19日

『悪人列伝 近代篇』〈D江戸時代〉

 『悪人列伝 近代篇』を読む。時代は江戸から明治までである。これにて『悪人列伝』は終了である。6編の史伝小説が掲載されている。

 「大槻伝蔵」は、いわゆる「加賀騒動」と言われる内容である。加賀藩の御家騒動であり、加賀藩の権力闘争事件史である。大槻伝蔵は「加賀騒動」では大悪党として描かれている。しかし、その事実は権力闘争に敗れたということに過ぎない。勝利者の書かれたことが、江戸時代の戯作者によりさらに面白可笑しく肉付けされた結果である。「悪人伝」ではなく、「悪人言説伝」である。「正義」も「悪」も、ある人たちにとって都合よく作られていくのである。
 面白い歴史記述は気を付けることである。江戸時代につくられた正義言説は、必ずしも歴史ではない。言説史・創作史である。
 
 「天一坊」は、八代将軍吉宗のご落胤という人物の事件である。これも大したことのない事件であるにもかかわらず、歌舞伎で取り上げられ、大事件のようにさせられてしまった事件である。物語と歴史的事実との区別がつかない江戸庶民の正義妄想である。取るに足りぬ「小悪党」にすぎない。
 この時代は、既にマスコミの時代であったと、言ってもよいのではないだろうか。となると、日本のマスメディアの最初は、大衆舞台劇だったということになる。

 「田沼意次」は当然現在では悪党である。国会議員が賄賂を受けたとなると、マスコミもネットも大騒ぎをする。まして田沼意次は実質的には、今で言えば内閣総理大臣である。しかも、毎日、わいろの人たちが押し掛けたというのであるから、犯罪件数はおびただしい。超極悪人である。
 しかし、田沼が賄賂を求めたというよりは、人びとの依頼嘆願が賄賂であったという傾向が強い。「贈収賄」で「贈賄」が先にあり、「しかと承った」と収賄になる、ということだ。ただし、「贈賄」しないと承らないというところが、根性が厭らしい。
 私が当時、大目付程度の職にあったならば、論理整然と諭したのであるが。ものの分かる理性ある人物であったので、しっかりと理解したことと思う。その後の松平定信のほうが偏屈の正義イデオロギストで、合理的な判断のできない人物であった。
 なお、当然のことだが、歴史上至る所で贈収賄がなされている。この後の明治維新の井上馨も汚い。にもかかわらず、明治の大物である。高杉晋作などは公金横領である。しかも、長州藩の年間収入の半分ほども横領している。それが明治の英雄である。これを批判しない現在の日本人の二重規範(ダブル・スタンダード)こそ問題であるのだが。
 まあ、正義なんてそんなものだと、考えてよいであろう。

 「鳥居耀蔵」。これは汚い。狡猾にして、権威主義にして、立身出世の欲望大にして、そのためには人を陥れることを当然のこととする。自己の汚さを顧みることなく他者を恨むこと人一倍であり、汚い方法で相手を落とし込める。手段は選ばない。
 戦国時代の松永久秀や宇喜多直家も汚かったが、それでも武士らしさがあり、いざとなれば、潔い。死を覚悟しての汚さである。
 しかし、この男は徹頭徹尾官僚人間だ。キツネ型の政治時代での典型的な悪人である。実に、小者の悪人である。(2493)
posted by 矢島正見 at 12:28| 我流雑筆

2020年06月18日

『悪人列伝 近世篇』〈C安土桃山・初期江戸時代〉

 弥生文化中頃からのほぼ2500年の日本の歴史では、半分近くが殺し合いの歴史であった、と言えよう。
 卑弥呼の以前から歴史は殺し合いの時代に突入している。大和朝廷も初期から既に殺し合いである。天皇家自体が親族同士殺し合っている。当時の支配者は「公家」ではない。その時代の闘争軍団であり、「最初の武士」である。それが天武天皇が支配するまで続いた。これが日本の第一次戦国時代と言えよう。およそ1000年ほど続いたと推測し得る。

 次の殺し合いの時代は鎌倉幕府崩壊から南北朝時代の終わりまで、およそ60年間である。天皇が二つに分かれて殺し合ったのだから、たまったものではない。アメリカの南北戦争のようなものである。
 当時、織田信長のような合理的で冷酷で野心のある大大名がいたら、両方の天皇を殺して、自らが皇帝になっていたのではないだろうか。これが第二次戦国時代である。

 世に言う戦国時代は第三次戦国時代である。応仁の乱から大坂夏の陣までの、およそ150年間である。
 幕末・維新から日清戦争・日露戦争・日中戦争・太平洋戦争が第四次戦国時代である。私は幕末・維新革命(国内内乱)の始まりを1842年、アヘン戦争終結からと思っているので、その間およそ100年である。これら合計すると、日本史のおよそ1300年間である。つまり、日本史の半分は戦国時代だったのである。

 では、残りのおよそ半分の1200年は平和の時代であったかというと、必ずしもそうとは言えない。各地で様々な乱がおこっているし、いたるところで小さな殺し合いがなされている。単に、大規模な集団的殺し合いが少なかったということである。
 極めて平和であった時代は、奈良・平安時代であり、江戸時代であり、現代である。
 ところが、この時代は、それはそれで実に厭らしい時代である。人を落とし込める、だまし合いの時代である。平和と言われている時代は、殺戮を伴わない汚い謀略の時代なのである。

 私は、日本の歴史を「獅子の時代」と「キツネの時代」に区分する。日本史は、ほぼ両者半分ずつの時代である。そして、交互に入れ替わっている。
 「獅子の時代」の歴史的反省はその反動として「キツネの時代」を招き、「キツネの時代」の歴史的反省はその反動として「獅子の時代」を招くのである。「獅子の時代」は殺し合い、「キツネの時代」はだまし合い、である。こうして、歴史は繰り返されるのである。
 鎌倉時代・室町時代の人は多かれ少なかれ、みな狡猾で腹黒い自己利益主義者と思っていてよい。武士も商人も農民もである。そうでなければ生きていけない時代であった。そして、それは戦国時代にまで引き継がれる。

 前置きが長くなってしまった。さて、『悪人列伝 近世篇』。
 ここでも、さほどとびぬけた悪人は出て来ない。「松永久秀」も「宇喜多直家」も、乱世を生きた名だたる戦国武将であり、狡猾で汚い人物である。この時代の一国一城程の武士ならば皆悪人である。斎藤道三も毛利元就も織田信長も徳川家康も山之内一豊も伊達政宗も、皆悪人である。
 「陶晴賢」はむしろ善人である。権謀術策に長けた毛利元就に騙された哀れな武将である。
 「松平忠直」は殺しに快感を求める狂人であり、側室がさらに狂人であったがゆえに、とんでもない虐殺に狂喜した。戦国時代であれば、狂喜して戦場で死んでいったであろう。
 「徳川綱吉」は、性格の偏った個別領域特殊正義イデオロギストであったに過ぎない。自然環境を大事にした将軍であり、クジラではなく犬を極端に愛護したにすぎない。
 今でも、綱吉と同類の「正義の人」が地球上には、限りなくいる。そういう人が絶対的権力者になったら綱吉と同じようになるであろう。

 中国や西洋の悪人に比べると、日本の悪人は実に可愛い。殺してもせいぜい数万人程度である。大陸とでは2〜3桁違う。(2492)
posted by 矢島正見 at 00:54| 我流雑筆

2020年06月16日

続々『悪人列伝 中世篇』〈B室町時代〉

 「高師直」も悪人とは言えない。
 この時代の一番の悪人は後醍醐天皇である。才気があり野心に満ち、狡猾であり、なおかつ天皇であれば、こういう人間は悪人となる。60年間の戦国時代(南北朝時代)をつくった張本人である。
 次の悪人は足利尊氏である。源氏一族の高位というだけで、さほどの才覚はない。時代に乗っていたら支配者になっていた、というだけである。
 弟はよくできている。そして高師直・師奏兄弟もよくできている。しかも両者は正反対。対立するのは必然。それをうまく使いこなす才覚も度量もないのが足利尊氏である。結果は両者の対立であり、ぐらぐらと揺れ動く尊氏である。
 もし、尊氏に秀吉ほどの度量と才覚があったならば、弟師奏は豊臣秀長となり、高師直・師奏兄弟は竹中半兵衛・黒田官兵衛となったのではないだろうか。そしてその帰結として、南北朝という天皇家の分裂はなかったであろう。後醍醐天皇は幽閉され、その後、毒殺されていたであろう。60年間の戦国時代(南北朝時代)はなかったであろう。

 「足利義満」も、だらしなく軽率なだけである。大体、室町幕府自体がさほどの権力を有していたわけではない。領地も少ない。他の大名たちと比べて抜きんでていたわけではない。連合政権である。ただ、明との交易で巨大な利益を有していたに過ぎない。
 したがって、将軍個人に力量がなければ、幕府の弱体は当然である。そして足利義満には力量がなかった。応仁の乱を引き起こした人たちの一人としての悪人である。
 なお、日野富子も、「政子」のように政治権力を発揮させたのではなく、コツコツと金を稼いでいたわけである。つまりは、時代を顧みない自己本位主義の「ぜいたく病」であった。
 やたらめったら、ダメ人間ばかりである。『悪人列伝』ではなく、『無能列伝』である。平和時であるならば、それでもよかったのだが、大乱の時代では、「無能=悪人=破滅」にならざるを得ないのである。
 思うに、太平の世の権力者は幸せである。「苦しゅうない、近こう寄れ」なんてセリフを生涯に渡って言えた支配者は幸せである。(2491)
posted by 矢島正見 at 00:07| 我流雑筆

2020年06月13日

ゆっくり・ゆったり

 今日は、こてっちゃんとあーちゃんが朝から来たにもかかわらず、すべてばあばに任せっきりで、一日、「ゆっくり・ゆったり」とした。
 久しぶりに漫画を読んだ。ちばてつや『紫電改のタカ』(全4巻)である。やはり感動する。ちばてつやの中でも最高の作品である。インディージョーンズ以上の手に汗握る活劇と、昭和19年から20年にかけての悲劇が、同時に描かれている。
 これだけの戦争少年漫画はない。そもそも、少年少女漫画に戦争の漫画を提示すること自体が難しい。描写が暗くならざるを得ないからである。子どもの頃、幾つかの漫画はあったが(たとえば『0戦はやと』)、リアリティのないつまらないものであった。
 『紫電改のタカ』も、今回読み返してみると、読者迎合があり過ぎるが、少年向け漫画なので仕方ない。これが青年壮年向け漫画であったならば、ドタバタ喜劇タッチは抑えて、大げさな活劇は抑えて、ついでに臭すぎるヒューマニズムも抑えて、もっと淡々とリアリティに描いたことと思う。
 ちばてつやは、漫画家としての力量だけでなく、太平洋戦争のリアリティある漫画を描くだけの時代性と生育性を持っているからだ。
 水木しげるとは異なった戦争漫画が描けたはずである。そしてそれは、水木しげると共に、今の若い漫画家では決して描けないものである。
 今少し、晩年になるまでテーマを温めておいて、描いたらよかった。
 なお、「第三四三海軍航空隊」「剣部隊」は実在し、「本土防空戦のなかにあって終戦まで戦闘機紫電改を用いて活躍した」(wikipedia)とある。(2490)
posted by 矢島正見 at 18:13| 我流雑筆

『社会学としての犯罪社会学――犯罪・非行・逸脱・病理の裏街道をゆく』

 2020年6月4日、書籍『社会学としての犯罪社会学――犯罪・非行・逸脱・病理の裏街道をゆく』が財団事務室に搬入されてきた。
 計画からおよそ8年間、本格的に書き始めてから3年間、ようやく完成した。横書き・A5判・368頁。「序論」「本論 第一部」「本論 第二部」の三部構成で、全10章からなる。私の研究の犯罪・病理に関しての集大成の書籍である。そして、すべて財団による手作りの本である。カバーのデザインは誠に素晴らしい。
 これにドヤ街研究とセクシュアリティ研究を加えれば、研究の全てとなる。今一つ、肩の荷が下りた。これにてさらに引退に近づいた。

 ここまではよいのだが、出版後、5日間かけて点検査読したところ、31カ所にて、間違い・誤字脱字・表現の不備が見いだされた。あれだけ点検したはずなのに…と、いささが残念である。本を出すたびに、出てから気付くのである。
 ただし、決定的な重大なミスは見当たらなかったので、その点ではほっとしている。(2489)
posted by 矢島正見 at 01:02| 我流雑筆

2020年06月09日

続『悪人列伝 中世篇』〈A鎌倉時代〉

 「梶原景時」も、鎌倉時代初期の権力闘争である。
 源頼朝の平家との権力闘争、源氏同士の木曽義仲との権力闘争、兄弟間の源義経との権力闘争。そして、その後の鎌倉幕府重臣たちの権力闘争である。ただし、公家のそれではないので、実に荒っぽい。権謀術策と武力行使の両方が展開される。
 その鎌倉幕府重臣間の権力闘争に敗れたのが梶原景時。汚い戦略を度々行えば、その場は成功するものの、いつしか嫌われるものである。特に、その後の史書・文紀にて、義経を追放させた張本人ということで、今のところ歴史上、この時代の大悪党になっている。梶原景時を殺して勝利した者も同様に悪党なのだが。

 「北条政子」はなかなかの才女であり政治家である。しかし、すさまじい嫉妬深さである。独占力の強い女であった。こんな女に惚れられた男は不幸である。頼朝も北条の娘でなかったら、寄り付かなかったことであろう。
 夫も息子も政治も自分の思うままに支配しなくてはいられなかった女である。そして、北条一族という権力を背景として、事実、支配した。

 「北条高時」は、鎌倉最後の哀れな男。怠け者で遊び好きの好人物。豊かな時代・平和な時代であるならば、面白おかしく生涯を閉じたことであろう。人間的には好かれたことであろう。
 しかし、鎌倉幕府は経済的基盤が崩壊直前、そうなれば利害関係で結ばれている幕府と御家人の関係は崩れ出す。封建体制の崩壊である。
 運が悪かったとしか言いようがない。決して悪人ではない。むしろ善人である。善人が権力を維持できない時代だったのである。
 時代は、善人が権力をもったほうが良い場合と、悪人が権力をもったほうが良い場合とに分かれる。チンギスハンもジュリアスシーザーもナポレオンも、どちらかと言えば悪人である。レーニン、スターリン、毛沢東、ポルポトは完全な悪人である。(2488)
posted by 矢島正見 at 22:54| 我流雑筆

2020年06月07日

永瀬拓矢 対 藤井聡太

 「Abema棋聖戦決勝トーナメント 永瀬拓矢 対 藤井聡太」を見た。
 面白いことに、両者の勝率が「%」で提示されている。「先手の候補手Best」というのも表示されている。その通りに指し手が指すと勝率が上がる。最後には、勝率「永瀬拓矢1% 対 藤井聡太99%」となる。
 最高位の棋士の勝負をコンピュータが採点している。生徒の試験を先生が「よくできました」「だめですね」と評価している感覚に襲われた。これはもはや人と人との勝負ではない。完全にコンピュータの支配下での勝負である。
 コンピュータの指し手通りに指せば勝つということである。将棋のド素人でも、コンピュータの指示通りにすれば、名人にも棋聖にも、なんにでもなれるわけである。もちろん、私でもなれる。
 とうとうここまで来てしまったわけである。マスコミと世間が「藤井聡太」などと浮かれていることが滑稽に思えてくる。
 将棋という勝負自体が「羽生善治」で終わってしまった。未知への挑戦がなくなった。コンピュータの性能がさらに良くなるという未来があるだけである。そして、さらに正確な予測で定められた路線がつくられるということである。
 今では既に、コンピュータに香落ちでプロが勝負という時代である。
 これからの将棋は、「へぼ将棋 王より飛車を 可愛がり」の庶民の娯楽としての道を歩むだけであろう。(2487)
posted by 矢島正見 at 14:18| 我流雑筆

2020年06月06日

『悪人列伝 中世篇』

 海音寺潮五郎『悪人列伝 中世篇』を読む。6本の短編が収められている。『古代篇』に比べると、皆スケールが小さくなる。さほどの悪人はいなくなる。なかには哀れな人も出てくる。
 思うに我が国の乱世は、日本国成立時代、南北朝時代、戦国時代と、三つしかない。その中でも最大の乱世は古代である。

『悪人列伝 中世篇』〈@平安時代〉
 「藤原兼家」は、朝廷での権力闘争である。いや、藤原一族内の闘争といってもよい。しかもその闘争は、兵を集めての合戦ではなく、権謀術策を用いてのだまし合いのキツネとタヌキの合戦である。時代が「獅子の時代」から「キツネの時代」になったことがよくわかる。制度と組織の中で勢力を握るのがキツネたちである。

 こうしたいやらしい権力闘争劇は、朝鮮半島の李王朝時代も同じである。朝鮮は基本的には日本のような武士の時代を経ることなく近代化に飲まれ込んでしまった。平安時代の日本とよく似ていると考えると実に理解できる。
 もっとも、最近の日本も平安時代になってきている。国民は公家化している。そして政治は権謀術策である。(2486)
posted by 矢島正見 at 00:14| 我流雑筆