2019年09月23日

『脳科学と少年司法』

 『脳科学と少年司法』を読む。
 専門家が一字一句読んでいくような本である。斜め読みは不可能の書である。専門分野の研究者でない限り、読むには難解な書である。
 少年司法研究に関しての現時点での最先端の少年司法の書である。従来の少年司法の基本的枠組みを覆すほどの知見を盛り込んだ書である。
 しかし、危険な書でもある。脳科学は始まったばかりである。したがって、その成果も始まったばかりである。これから数十年と研究が続き、ようやく科学的知見として定着し得ることである。したがって、今後、どのような研究成果が表れるか予測しづらい領域である。
 それ故に、現時点では、断定的な結論は控えなければならないし、また、読者もそう思う必要のある内容である。
 ところが、ある一定の正義イデオロギーを抱いていると、自分たちに都合の良いような科学的知見に飛びつき、先取りする傾向がある。これは、執筆者だけでなく、読者もである。
 ボーヴォワールの『第二の性』での「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言説は、それに心地良く感じたフェミニストの聖書と化した。しかし、今では人類(ホモサピエンス)の雌(「女」と呼ばれる)と雄(「男」と呼ばれる)では、脳の働きが異なることが実証されている。やはり、「女に生まれ」「男に生まれ」るのである。
 先取はかっこいいし、先取者を有名にさせるが、危険であるということを常に理解していなければならない。脳科学の専門外の研究者は特に注意が必要である。
 よく理解できたのは「第4章」である。それもそのはず、社会学者が書いた章であり、私のよく知っている研究者が書いた章であるからだ(よく知っているということは、書いたことがよく理解できるということにつながる)。
 刑事司法学者は、私の感じるところ、新しい理論や科学的知見に飛びつく傾向が多々ある。特に「科学」ということに弱い。そして、それを法律にうまく取り込もうとする。何故なら、法律は学問にしろ、政策にしろ外枠をがっちりと維持していればよいのであり、中身は社会学でも、心理学でも、福祉学でも、精神医学でも、脳科学でも、何でもよいのである。そうした学問の知見を法学という学問の枠の中で旨く位置付けられればそれでよいのである。
 ところが、社会学はそれに逆らう傾向が多々ある。それがこの「第4章」である。11章ある中のたったひとつの章だけ社会学ということが何となくわかる。
 脳が成長している間はまだ少年である、などという見解はいったいどこから来るのか。そうした知見の発見をどれほど騒ぐ必然性があるのか。それこそが不思議である。法学という学問自体が、どこかできちんと区切りを付けたがる性格を帯びているのであろう。
 科学的根拠に基づいた政策論議は必要であるが、科学的知見をイデオロギーに利用してはならない。(2390)
posted by 矢島正見 at 12:20| 我流雑筆