2019年07月29日

『春燈』B/3(完)

 幼少時から小学生に至るまで、わがまま放題で、自分勝手で、相手のことは一切考えることなく、母親は何でも自分のことを叶えてくれる存在であり、岩伍と年の離れた兄以外は全て自分より劣っており、自分より下の存在であり、自分の言うことに従う存在と思う小皇帝として綾子は描かれている。
 私だったら、こんなガキがいたら張り倒してやるのだが、岩伍ですら手を挙げたことがないという(他人が自分のことをひっぱたくなどあり得ないと信じ切る)少女が綾子である。
 小学校の高等科でも、友だちもできるが、自分に従う友達には優しく、無視したり逆らうものならたちどころに怒りを爆発させる少女であり、学校で一番の成績で、一番目立つ存在でないと気が済まない小皇帝であることには、まったく変わらない。
 文学や芸術の才能はあり、涙はよく流すが、人の苦労にはまったく鈍感な、多感な思春期を生きる小皇帝である。周りの生徒たちの中には苦労して生きてきた少女が多く、それに感化されてもよさそうなものなのだが、ただ新鮮に驚くだけの文学的感性での感動であり、自己の生活の反省も、自己の生活を変えようとする意志もない小皇帝である。
 父親の岩伍に逆らい自分の人生は自分で決めるというカッコイイ理念を抱きつつも(捨てぜりふを吐きつつも)、衣食住を受けることは当然のことと受け入れ、ぜいたくな暮らしですら当然のことと受け入れ、どんな人生を選ぼうとも金を出すのは岩伍であり、その人生を切り開くのも岩伍であり、開かれた道を進むのが自分の人生であると、全く疑問に思わない女皇帝である。
 したがって、小説の終わりに至っても、岩伍に逆らっても、経済的自立など到底できず、そうした努力をしようともせず、そしてできないのを当たり前と思う、自立も自律もない女皇帝であり続ける。
 最後に至ると、不便な貧しい生活を生きるが、それは今までにない生活を新鮮な感覚で味わっているだけであり、そんな生活を数か月すら続けられない女であることに変わりなく、好みの男に求婚され、家の反対を押し切ってでも結婚を考えるのだが、男と女の性生活はまったく意識外であり、子どもを産み育てることも意識外である。

 宮尾登美子は、よくもまあこんな女を描いたものだと感心するのだが、このモデル(綾子)が宮尾登美子自身であることを思えば納得するし、よくもまあこんな小説がベストセラーになったものと感心するのだが、書かれた時代がバブル経済時代であったことを思うと、これもまた納得する。
 坪井栄の『二十四の瞳』の子どもたちとほぼ同時代であるが、まったく異なる子ども像である。(2372)
posted by 矢島正見 at 18:05| 我流雑筆