2018年10月06日

『土』F

 終わりのほうになって、出火した。卯平と与吉の火の不始末から、家が全焼した。それだけでなく、炎は林を越え隣の地主の家へと飛び火し、隣家も燃えてしまった。これがこの小説のクライマックスとなる。
 小作農ならこれで終わりである。火事は村では最大の恐怖であり、最大の悪事であり、火を消すまでは村中総動員で事に当たるが、消し終わったら、地主の家まで燃やしてしまったのだから、追放は免れないし、警察の捜査も入る。
 しかし、おかしなことに、南の地主のかみさんの実に心優しいこと。このかみさんが、長塚節の母親であると推定すれば、理解できる。描写は自然主義を基調としつつも、根底としての長塚節の背後仮説が露骨に出てしまっている。
 そうなると、大地主の息子が、若くして肺結核となり、なんの働きもせずに、文学を志し、手帳をもって村を歩き回り、見聞きを記述して出来上がった小説という長塚節の限界が見え隠れする。自分の家族も村の人たちも、皆心優しい人たちとして描かれていることがよく理解できる。
 上流インテリ階層の夏目漱石では、それがわからなかったのであろう。いや、漱石だけでなく、明治時代では、小説を書くということ自体、上流インテリ階層青年の世界だったのであろう。
 こうした視点から眺めると『土』は、一部の視点に立っての、あるひとつのリアリティと言わざるを得ない。いっそのこと、肺結核となった大地主の息子(長塚節自身)を登場させればよかった。
 結局、有島武郎の『カインの末裔』のような、惨めな・残酷なラストシーンは望みようもなかった。(2276)
posted by 矢島正見 at 14:28| 我流雑筆