2018年07月28日

『津軽通信』

 太宰治の『津軽通信』を読んだ。
 高校から大学にかけて、太宰治のファンであったが、この歳になって読み直してみると、太宰文学は青年文学であると同時に大衆文学である、と思える。
 観念的であり、心情的である。主人公がどのような生活をしているのかよくわからないにもかかわらず、生活感があふれている。それを実に素直に、かつ分かりやすく提示する。青年の心をつかんだのは、その点にあったと思える。
 青年は、生きるという現実性は乏しいのだが、実在感は充満している。そうした当時の青年は太宰の感性と共振したのだ。
 太宰の文体の特徴は、第一人称の告白体というところにある。しかし、「私小説」というジャンルで括るにはあまりにも「私」すぎる。私小説作家の中でも特に、太宰は自分のことを好んで書いた。しかも、自虐的な自分を好んで描いた作家である。
 織田作之助、坂口安吾と比べてみると、坂口安吾ほど観念的ではなく、織田作之助ほど具体的ではない。中間である。《私的感性から自虐的に自己表現した作家》と言えよう。
 さて、『津軽通信』には20の短編が掲載されている。その半分が成功していて、半分が駄作である(もちろん、これは素人の私の評価である)。成功の半分は、太宰の感性がうまく小説になっている作品である。また、ショートショートストーリーのような、超短編ものも、感性がうまく出ている。
 太宰はストーリーテーラーである。自分自身を追い込んで、追い込んだ自分を追い込まれたかのように書くのを得意としたストーリーテーラーである。
 〈あえて自己を追い込んでおいて、追い込まれた自己を告白調に書く〉と、こんな作家が今いるであろうか。その点では、太宰はやはり時代を生きた代表作家である。(2248)
posted by 矢島正見 at 16:13| 我流雑筆