2018年06月18日

『俘虜記』

 今、大岡昇平の小説『俘虜記』を読んでいる。
 大岡昇平の小説では以前『野火』を読んでいる。すさまじい小説であった。しかし、その前に映画で見ている。その映画は今でもトラウマのように覚えている。同時上映でなぜか『人間の条件』を映画でみたのだが、『野火』はすさまじく、『人間の条件』はカッコいいという印象である。
 読んでいるのが、昔の文庫本なので活字が実に小さい。年寄りには絶望的に読み辛い。以前は年寄りのことなど配慮する必要がなかったようである。文庫本は若者が読むという暗黙の了解があったようだ(若者でも読める安い本)。

 内容であるが、俘虜収容病院(ミンドロ)と俘虜収容所(レイテ)の一年間のことが書かれている。そこでの俘虜生活記録である。この記録に関しては、実によく書けている。また、聞き語りの部分も含めて、ほぼ事実であると推測し得る。史実に基づいての個人史小説である。それだけでもすごい。

 驚いたことは、米軍の収容所の日本兵に対しての対応がすこぶる良いということである。特に、収容施設が整い出した昭和20年6月頃からは実に良い。戦前の日本で各自生活していた頃よりも恵まれた生活を過ごしている、といってよい。大岡氏も解説でそのように述べている。その頃、日本本土は米軍機の攻撃で都市は灰と化し、沖縄では地獄の戦争が行われていたわけであるから、さらに待遇の良さは際立つ。

 一日2700カロリーの肉中心の食事をしていたし、月に3ドル(当時の3ドルは日本円に換算したらかなりの額である)の給与が与えられ(ただし、物品として)、労働によりさらに数ドル加算される。煙草の配給は一人ひと月20本入り20箱である。タバコを吸わない俘虜もいるので、ヘビースモーカーでも十分な量が行き渡っている。酒も干しブドウから醸造されたワインもどきを毎晩のように飲み、各所で宴会が行われている。
 また、俘虜間での軍の階級の特権性が極めて弱い。軍の階級ではなく、有能な知識・技術・能力を持つ者や巧みな人間関係を構築できる者が収容所を統制する者となり、多少の優遇を得るという程度である。ソビエトのシベリア送りされた日本人捕虜の状況とは全く異なる。
 『南の島に雪が降る』は加藤大介の捕虜体験記であり、部隊はニューギニアであり、やはり日本兵はマラリアで死んでいくが、そこでも随分と寛大に描かれているが、ここではそれ以上に優遇されいると思える。
 こうした違い(米軍支配の収容所とソビエト支配の収容所との違い)は、是非とも現在の日本人にきちんと伝えるべきであるし、国際社会に訴えるべきである。

 ただ、どうも引っかかる記述が至る所に出てくる。それは俘虜となった日本兵個々人に対しての人格描写・人間評である。
 どう考えても、英語が堪能で(収容所では通訳を務めている)ドイツ語も多少話せて、京都大学(帝大)出の文学青年で、大企業のエリート社員であった知的エリート(大岡昇平)目線での人格描写・人物評だからである。
 大岡氏自身は、公平な目線・良いも悪いも関係なく、戦場でのまた収容所での日本人を描いたのだろうが、記述されたのは俗物人間・狡猾人間・無能人間・怠惰人間への軽蔑的人物評である。俘虜収容所という世間(人間関係一般)の記述は良いのだが、一人ひとり名指しで(もちろん、匿名だろうが)、評論する小説展開は、読んでいて、あまり共感できない。
 それに主人公(大岡氏自身)がカッコよすぎる。俗物人間・狡猾人間・無能人間・怠惰人間は逆に大岡という俘虜をどう見ていたのだろうか。「インテリぶりやがるヤな奴」という一言だったのかもしれない。
 やはり、学問的には、さまざまな日本兵の俘虜体験記を集成して、総合的に考察していく必要がある。一つの正義からの記述・考察は危険である。(2233)
posted by 矢島正見 at 12:09| 我流雑筆