2020年08月06日

手塚治虫(その2)

 手塚後の漫画家の多くは手塚の影響を受けているが、またそれ故に日本を漫画大国へと発展させていったのであるが、その影響は良くもありまた悪くもあった。

 それは、手塚漫画から映画の手法を漫画に取り入れたということである。これにより、動きのある漫画が成立したし、起承転結のストーリーが、小気味よく・スピーディーに展開されるようになった。
 しかし、それ故に、長編の漫画では、常に派手なストーリー展開がなされてしまう。そうしないと人気が出ないし、出版社も承知しない。漫画の週刊誌化はこうした傾向に拍車をかけた。

 雑誌で小刻みに見ているぶんには、カッコいい場面で・ハラハラドキドキの場面で次週に繋ぐことができ、違和感はないのだが、これが書籍となって、全巻を読むことになると、起承転結の連続であり、サービス過剰・展開過剰となって表面化する。演出過剰のドラマのようなものであり、演技過剰の役者のようなものである。

 それでも、少年や青年では喜ぶことであろうが、私のように歳取って読むと、いただけない。味付けが濃すぎるし、観光旅館の夕食のように、あれもこれもと並びたてられる献立は、それだけで食傷気味になる、食べる前から胃が痛くなる。『アドルフに告ぐ』でさえ、こうした漫画の映画化から逃れられていない。

 落語で考えてみよう。前座がするような短い単純な噺では、大いに笑わせてよいだろう。林家三平調でよい。しかし、真打がする本格的な噺では、笑うところはそれほどない。かたりの展開で何度も起承転結をするなどということはない。淡々と噺は進み、そして最後のさげ(おち)でぴしりと終わるのだ。
 これを漫画に求めること自体、今の漫画事情では不可能化してしまっている。その張本人が手塚治虫である。

 wikipediaの「手塚治虫」では、私の好きな、そしてあまり知られていない漫画家も登場する。馬場のぼるであり寺田ヒロオである。この二人は、手塚と年齢が近かったので、あまり手塚の影響を受けてない。のほほんとした漫画である。
 そして、手塚漫画とそれ以降の漫画への違和感から手塚の一番弟子ともいえる寺田ヒロオが漫画界から去って行ったのは、まったく皮肉なことである。(2509)
posted by 矢島正見 at 22:44| 我流雑筆