2019年11月14日

『墨東綺譚』D/5(完)

 今ひとつ面白かったのは、「年譜」である。これを丹念に眺めていると、色々と思い浮かんでくる。
 ものすごい家柄であり、裕福な家に生まれている。国家高級官僚のエリート家系である。この頃の国家高級官僚は、今の時代の高級官僚とはレベルが違う。この点は太宰治と類似する。ダメなところも同じである。

 しかし、やはり違う。永井家は、近代日本社会の中心にいるエリートである。そこで、本人の自覚と努力とは無関係に、無理に学校に行かされ、無理にアメリカに留学させられ、フランスに留学させられ(親は実利学を学ばせるため、本人は好色のため、具体的に言えば、白人の女を抱くため)、無理やりに大企業に職を与え(本人はやる気まったくなし。そこで解雇される)、様々な地位・身分を与えられている(いや、与えてもらっている)。道楽息子に対して、実に甘い。父親だけでなく、母親が甘かったようである。
 太宰の実家はそうではなかった。そこまで面倒を見ていない。それは時代の最先端を行くエリートと地方の富豪との大きな差である。金があるか否かだけでなく、子どもへの先行投資の考えの違いであり、社会関係資本がどれほどあるかの差である。

 しかし、それだけではない。永井荷風は永井家の長男として生まれた。末弟が欧米から帰国した時には、荷風は既にどうしようもない放蕩息子になっていたが、それが許されていた。これでは末弟(おそらく実直な末弟)とケンカ別れするのも当たり前である。しかし、ケンカ別れだけであり、長男としての自己の地位と衣食住は豊かに与えられている。贅沢三昧の日々である。
 太宰の場合、六男として生まれている。一家を引き継いだのは長男である。荷風のような国家官僚ではない。地方の富豪では家を継いだ者が絶対的である。太宰は、長男に屈しなければならなかった。さもなければ一銭もふところに入ってこない。こうして、突然に貧乏の生活に陥った。そこが大きな違いである。
 荷風が末子であり、けんか別れした末子が長男であったなら、そして国家官僚ではなく、地方の富豪であったなら、荷風はいなかった。太宰はそれでもいられたが、荷風はただ捨てられただけの存在であったろう。アメリカ留学もフランス留学もなく、好きなけいこごとに励むことも出来なかったであろう。

 一度、落語家になろうとしたようだが、古今亭志ん生のような絶望的な貧乏を体験しなければ、落語の味など出てくるものではない。志ん生も、直参旗本の倅であるが、勘当されている。既に十代から実家との縁を切って(切られて)生き抜いた。
 荷風は、女を買い、妾を囲み、離婚し、妾と結婚し、それとも離婚し、女郎屋通いをし、親の危篤も女郎屋にいて知らず、実家の家を勝手に売り払い、好きなだけ金を使い、そうすればだれでも女にもてるはずなのだが、その自覚もたいしてなく、80歳まで生きた男である。
 人の人生など、「環境」としか言いようがない。才能に恵まれない荷風もあり得なかったが、環境に恵まれない荷風もあり得なかった。それを「昭和文学屈指の名作」とは、文芸評論家はどうも文芸だけわかれば成り立つ商売のようである。(2408)
posted by 矢島正見 at 18:27| 我流雑筆

2019年11月11日

『墨東綺譚』C/5

 付録的に「作後贅言」という随筆がある。これは面白かった。私にとっては、『墨東綺譚』よりよほどよい。
 関東大震災以降昭和一桁までの時代が書かれているが、実に納得する。花電車も東京音頭の公開も、実は商業的利益でしか過ぎないという考察はまさに社会学である。
 「内情は日比谷の角にある百貨店の広告に過ぎず、其店で揃いの浴衣を買わなければ入場の切符を手に入れることができないとの事である」という記述には、笑ってしまった。
 ガード下での「血盟団」の張り紙とその下で寝ている乞食の観察も鋭い。
 「現代人が深夜飲食の楽しみを覚えたのは」、省線の最終が遅くなったこと、円タクの深夜料金が安くなったことであり、そして、この「風俗を矯正しようと思うなら、交通を不便にして明治時代のようにすればいい」と言う翁。
 さらに「何もかも勢力発展の一現象だと思えば、暗殺も姦淫も、何があろうとさほど眉を顰めるにも及ばないでしょう」と言う翁の言葉は、これだけですごい。
 百年を超越している。時代を時代の外から眺めている。幕末も人間の勢力発展、日露戦争も第一次世界大戦も人間の勢力発展、そして5.15事件も…というのである。
 これはニヒリストの眼差しである。「日本は滅ぶかも」「日本人はすべて殺されるかも」という達観である。鴨長明に通じる。それは、悲嘆にくれた思いではないし、激怒した思いでもないし、絶望の思いでもない。静かに文明の滅びゆく先を見据えての覚悟、といった無常観である。(2407)
posted by 矢島正見 at 16:35| 我流雑筆

2019年11月09日

『墨東綺譚』B/5

 まだ、内容に入っていない。しかし、内容は私としては面白くなかった。
 解説にて「昭和文学屈指の名作」と評しているが、「どこが」と思ってしまう。ただ、「耽美派作家」「抒情小説」というのにはうなずけるし、樋口一葉の『たけくらべ』に匹敵すると述べていることにも納得する。言われてみれば、その通りであり、ともにはっきりしない、感性で書かれた作品である。一葉の『たけくらべ』がつまらなかったのとほぼ同じ感想で『墨東綺譚』もつまらなかった。
 あれだけ女と寝て、女の尻の穴まで知り尽くしたにもかかわらず、この表現は何だ、と言いたくなる。宮尾登美子の『朱夏』のような体験をしたら、永井荷風はどのような小説が書けるのだろうか。おそらく、書く前に満州の地で死んでいたことであろう、と思う。

 「ラディオ」の音が嫌い、「蓄音機」の音も嫌いと、人工的な音を嫌い、墨東の私娼宅にて、むらがる蚊の音に安らぎを覚える。無数に襲いかかる蚊をいくらか追い払っているようだが、そうしたことは気にしない、蚊に刺されて痒いということもないようだ。荷風ならば、『朱夏』では、高粱畑に沈む夕日を美しく描くことであろう。しかし、八畳の間に十人が住み着く様子は無視することであろう。
 解説に「現実性を欠くとの評もあった」と書かれているが、まさにその通りであり、しかも「欠く」というレベルではない。「現実」に対しての認知そのものが普通と違っているのである。(2406)
posted by 矢島正見 at 14:39| 我流雑筆

2019年11月06日

『墨東綺譚』A/5

 「深川洲崎遊廓」が出てくる。玉ノ井とは異なるが、気になるので、確認のためまたネットで調べてみると、現在の、東京都江東区東陽一丁目であり、駅としては「木場」が近い。江戸時代は、深川芸者と言えば、「粋な姉さん」「芸は売っても身は売らぬ」ということで、大したものであったという。

 さて、「玉の井」であるが、旧東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島五丁目、東向島六丁目、墨田三丁目)であるという。東武鉄道玉ノ井駅は、現:東向島駅であるという。白鬚(しらひげ)橋を渡っていくという記述と一致する。
 またWikipediaから引用する。「漫画家の滝田ゆうは玉の井の出身で、自分の少年時代をモデルに寺島町奇譚を描いている。作家の半藤一利は、玉の井があった寺島町の隣町の吾嬬町育ちで、「永井荷風の昭和」(文春文庫)の中で少年時代にたずねた思い出を記している。」
 「第二次世界大戦中は、軍需工場の工員や兵隊たちで賑わったが、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で街のほとんどが焼失した。(略)ただ、密集した街の中を入り組んで通る細い街路だけは、ほぼ昔のまま残っている」という。
 いつもWikipediaには感心するが、いい内容であり、文章である。
 それにしても、「滝田ゆう」とはなつかしい。『寺島町奇譚』という漫画だそうだが、たしか読んだはず。記憶にある。59歳で亡くなられている。いい漫画家だった。あのような内容と絵を描く漫画家は後にも先にも彼一人である。(2405)
posted by 矢島正見 at 00:52| 我流雑筆

2019年11月01日

『墨東綺譚』@/5

 永井荷風『墨東綺譚』を読む。(「墨」はさんずいなのだがこのパソコンでは表示できないので、この「墨」とする。)(なお、本書は7月末のある日一日にて読んだ本である。掲載が後回しになってしまった。)
 場所は玉の井。どのへんかよくわからないが、隅田川の川を渡った東側だ。こういう本を読むと、内容だけでなく、時代や地域が気になってしまう。しかし、よくわからない。三橋順子氏であれば、すぐに指摘できるのだが、私はネットの地図を見ながら、この辺だと推定するしかない。

 ところで、「秋葉神社」というのが出てくる。調べてみると全国津々浦々にあるとのこと。本宮は浜松市天竜区にあるという。山の中に在るようで、随分と由緒ある神社のようだ。
 それはどうでもよいのだが、東京のこの小説に出てくる地域にも二つある。一つは台東区松が谷三丁目にある「秋葉神社(あきばじんじゃ)」である。「明治初年頃大火災の頻発により、東京市民の火災鎮護の祈願所として秋葉原の地に建立された。後に鉄道駅の設置により現在地に遷座されたが、『秋葉原』の名も当社にその起源を発するものである。」と書かれているので、「秋葉原」という駅名がこの神社から由来しているということがわかる。なお、本宮のほうは「あきは」と読むとのことである。「あきば」は関東なまりなのか。

 そこでさらにネットで調べてみると、明治2年の大火の後、「延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる」と出ている。
 昔の人は駅名を「あきばはら」と言っていたということを母から聞いた記憶がある。そして秋葉原は「秋葉が原」と言っていたと言う。ネットでも火除地を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んでいたと書かれている。それがいつから「あきばはら」となり、さらに「あきはばら」と言うようになったのか。
 さらに調べてみた。「あきはっぱら/あきばっぱら(秋葉ツ原)」「あきはのはら/あきばのはら(秋葉ノ原/秋葉の原)」「あきはがはら/あきばがはら(秋葉ケ原/秋葉ガ原)」などと呼ばれ始め、呼称は統一されていなかった。」と書かれている。
 そして、「当地区の呼称が「あきはばら」として定着するのは、鉄道駅の開設以降とするのが定説である。後に地名の読み自体も「あきはばら」となる。なお、1890年(明治23年)に開業した時点では「秋葉原駅(あきはのはらえき、英語: Akihanohara Station)」であり、旅客は扱わない貨物専用駅だった。駅の呼称としては「あきはのはら」から「あきははら」に変化した後、1907年(明治44年)に「あきはばら」へと変更された。現在は日常会話やメディア等で広く「あきば」という略称が使われ定着している」とある。私に言わせれば「アキバ」であろう。
 これでようやく納得した。初めからWikipediaを見ればよかった。いやー、Wikipediaは実に便利である。

 さて、ようやく今ひとつの「秋葉神社」。これは墨田区向島四丁目にある「秋葉神社」で、隅田川と東武曳舟駅の中間にある。場所としては、「吾妻橋を渡り」という表現があるので、小説に出てくるのはこちらのほうだと思える。読み方は「あきは」なのか「あきば」なのかは不明である。(2404)
posted by 矢島正見 at 12:00| 我流雑筆