2019年10月02日

『犬を飼う武士』

 白石一郎『犬を飼う武士―十時半睡事件張』(第四弾)を読む。
 相変わらず面白い。
 しかし、いつも思うのだが、「歴史小説」では、時代は明確にわかる。本能寺の変を描いていれば、どの時代か、考えることなくわかる。
 ところが、「時代小説」では、時代がわからない。架空の物語ゆえに判断し得ないのだ。江戸時代ということはわかるが、江戸は二百五十年以上続いている。初期・前期・中期・後期・末期では様子が違う。
 また、「宝暦元年」などと書かれても、歴史学者でない限り、すぐに時代を想起し得ることなどまずできない。「宝暦元年(1751)」とあれば良いのだが、こうすると時代小説らしくなくなるのか、そうした表現は少ない。
 これが、奈良時代、平安時代ではさらにわからない。ころころと変わるからだ。
 この『十時半睡事件張』も、吉宗の時代(中期)から文政年間(後期)と推測し得るのだが、それでも百年間ある。

 さらに年齢がわからない。「満」か「数え」で異なる。12月31日に生まれた子どもは「数え」では、生まれた時点で1歳となる。翌日の正月元旦には2歳となる。
 宮尾登美子の『春燈』では、綾子は数えの年齢で表記されている。ところが、『朱夏』では満で表記されている。『春燈』では綾子は19歳で結婚し、『朱夏』では綾子は17歳で結婚している。

 さらにさらに、季節がわからない。旧暦なのか新暦なのか書かれていないからだ。この『犬を飼う武士―十時半睡事件張』でも、分からない個所がある。
 「桜の季節が来た。(略)三月も半ばを過ぎると、淡紅色の花びらがいっせいに咲き揃う。」とある。「咲き揃う」ということなので、開花時ではなく、満開に近づいた時期(五分咲の頃か)である。福岡の開花時期と東京の開花時期にさほどの違いはなかったと記憶している。温暖化が問題となっていない江戸時代では少し早すぎる。
 ただし、この頃の桜はそめいよしのではない。山桜の場合は、やや長期に花が咲き続ける。山桜でもそれぞれ異なるらしいが、だいたい3月下旬から4月中旬頃までの3−4週間ほどである。それにしても、「三月も半ば」というのはやや早すぎる感がある。早咲きの桜なのか。これが旧暦であれば「三月も半ば」は四月下旬となる。そうなると今度はずっと遅すぎる。
 「五月も半ばを過ぎた頃になって、ようやく鬱とうしい菜種梅雨が明けた」とある。調べてみると「菜種梅雨」は、「菜の花が咲くころに降る雨」ということで、関西以西であるならば3月中頃から4月上旬にかけてのようで、「春雨」とも言うとのこと。
 春雨であるならば、知っている。「月様、雨が…」「春雨じゃ、濡れてまいろう」なんて演劇・映画のセリフがある。場所は幕末の京都。たしか、桜の散る頃に降る雨という認識がある。梅雨のように長く続くものでもない。
 「五月も半ばを過ぎた頃」というのは、季節として遅すぎる。旧暦では「五月半ば」は完全に梅雨の最中である。「菜種梅雨」ではなく「五月雨」である。これではもっとおかしい。
 どうもこの小説では、季節が旧暦なのか新暦なのかはっきりしないのである。(2392)
posted by 矢島正見 at 12:57| 我流雑筆