2019年09月27日

『刀』

 白石一郎『刀―十時半睡事件張』(第三弾)を読む。
 『包丁ざむらい―十時半睡事件張』(第一弾)は長塚節『土』を読んだ後に、『観音妖女―十時半睡事件張』(第二弾)は唐木順三の困難な本を読んだ後に、そして今回は宮尾登美子の『櫂』『春燈』『朱夏』を読んでからである。難しい小説や評論を読んだ後の肩のコリをほぐすには最適の本である。
 「解説」で石井富士弥氏は、十時半睡の風貌や顔つきが小説では描かれていない、と指摘する。そして、もし『十時半睡事件張』が映画化されたら誰が演じるのか当てて観たいと趣向を提示する。
 出て来た映画スターは、解説の石井氏が白石一郎と同年ということで、今では実に古いのだが、月形龍之介、大河内伝次郎、坂東妻三郎、さらに、勝新太郎、仲代達也、三国連太郎、森繁久彌、渥美清、笠智衆と、名前が挙がる。
 その後、NHKにて『十時半睡事件張』が放映されたが、半睡を演じたのは島田省吾であった。実に適役であった。文庫本の表紙は月形龍之介似である。
 私なら、宇野重吉、片岡千恵蔵を付け加えたい。
 現在の俳優の名前はほとんど知らない。顔はわかるのだが、名前がわからない。しかし、一人この人と言う人を挙げてみる。宇野重吉の息子の寺尾聡である。彼ならぴったりの役柄と思う。なお、ネットで寺尾聡を調べてみたら、横浜市保土ヶ谷区の出身であった。これには驚き。(2391)
posted by 矢島正見 at 12:15| 我流雑筆

2019年09月23日

『脳科学と少年司法』

 『脳科学と少年司法』を読む。
 専門家が一字一句読んでいくような本である。斜め読みは不可能の書である。専門分野の研究者でない限り、読むには難解な書である。
 少年司法研究に関しての現時点での最先端の少年司法の書である。従来の少年司法の基本的枠組みを覆すほどの知見を盛り込んだ書である。
 しかし、危険な書でもある。脳科学は始まったばかりである。したがって、その成果も始まったばかりである。これから数十年と研究が続き、ようやく科学的知見として定着し得ることである。したがって、今後、どのような研究成果が表れるか予測しづらい領域である。
 それ故に、現時点では、断定的な結論は控えなければならないし、また、読者もそう思う必要のある内容である。
 ところが、ある一定の正義イデオロギーを抱いていると、自分たちに都合の良いような科学的知見に飛びつき、先取りする傾向がある。これは、執筆者だけでなく、読者もである。
 ボーヴォワールの『第二の性』での「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言説は、それに心地良く感じたフェミニストの聖書と化した。しかし、今では人類(ホモサピエンス)の雌(「女」と呼ばれる)と雄(「男」と呼ばれる)では、脳の働きが異なることが実証されている。やはり、「女に生まれ」「男に生まれ」るのである。
 先取はかっこいいし、先取者を有名にさせるが、危険であるということを常に理解していなければならない。脳科学の専門外の研究者は特に注意が必要である。
 よく理解できたのは「第4章」である。それもそのはず、社会学者が書いた章であり、私のよく知っている研究者が書いた章であるからだ(よく知っているということは、書いたことがよく理解できるということにつながる)。
 刑事司法学者は、私の感じるところ、新しい理論や科学的知見に飛びつく傾向が多々ある。特に「科学」ということに弱い。そして、それを法律にうまく取り込もうとする。何故なら、法律は学問にしろ、政策にしろ外枠をがっちりと維持していればよいのであり、中身は社会学でも、心理学でも、福祉学でも、精神医学でも、脳科学でも、何でもよいのである。そうした学問の知見を法学という学問の枠の中で旨く位置付けられればそれでよいのである。
 ところが、社会学はそれに逆らう傾向が多々ある。それがこの「第4章」である。11章ある中のたったひとつの章だけ社会学ということが何となくわかる。
 脳が成長している間はまだ少年である、などという見解はいったいどこから来るのか。そうした知見の発見をどれほど騒ぐ必然性があるのか。それこそが不思議である。法学という学問自体が、どこかできちんと区切りを付けたがる性格を帯びているのであろう。
 科学的根拠に基づいた政策論議は必要であるが、科学的知見をイデオロギーに利用してはならない。(2390)
posted by 矢島正見 at 12:20| 我流雑筆

2019年09月21日

『加害者臨床を学ぶ―司法・犯罪心理学現場の実践ノート』

 『加害者臨床を学ぶ―司法・犯罪心理学現場の実践ノート』を読む。
 少年鑑別所や刑務所で、長年現場を経験した方の総大成ともいうべき書である。素晴らしい本である。基本的な文献をすべて読み込み、多くの理論を習得しての論述展開がなされている。
 と、このように書くと、理屈の本かと、おそらく読む気にはならないであろう。ところが、こうした理論研究を土台としつつも、論述の中核は、自己の体験した臨床からの知見であり、ときに個人史である。
 したがって、実に読みやすい。読みやすいがゆえに、読者は、理解を深めることなく、読み進めてしまうという危険を犯しやすい本である。これは、中身があり、読みやすい本の欠陥である。中身がないのに難しく書かれた本は、一字一句読むのであるが、そして最後には落胆するのであるが、こういう本は、その深さがわからないままに、「面白かった」で終わってしまう危険性がある。
 体験的記述が描かれているにもかかわらず、しっかりとした理論がその背景にあるのである。言い換えれば、理論に基づいて書かれているのではなく、体験を通して、理論を検証し、理論を超えて現状を把握している本である。その点、理論の、そして臨床の反省の書である。(2389)
posted by 矢島正見 at 13:30| 我流雑筆

2019年09月19日

『過去から未来に語り掛ける社会的養護』

 『過去から未来に語り掛ける社会的養護』を読む。4名の著名な子ども養護実践者の実践個人史である。
 具体的に言えば、児童福祉施設(教護院(児童自立支援施設)、児童養護施設、里親、児童相談所、障害児施設、等)での、実践活動史である。
 叶原土筆氏、平井光治氏は、この業界では著名でり、最長老である。両者の「社会的養護」の昔話は、一読に値する。社会福祉領域で働いている人や問題を抱えた子どもたちへのボランティア活動をしている人にとっては、お勧めの書である。
 実にわかりやすく、読みやすく、面白い本である。まったくの素人の方でも読めるし、感動し得る本である。
 今ひとこと付け加えるならば、この本は理論や理屈を理解するというものではなく、書かれていることに共感するか否かという次元で評価すべき本である。そして、このような評価では「特優」である。(2388)
posted by 矢島正見 at 10:11| 我流雑筆

2019年09月16日

『銅婚式』

 佐野洋の短編集『銅婚式』を読む。8本の短編が収められている。佐野洋としては初期の作品であり、力作ぞろいである。しかし、以前(30年ほど前)、この小説を読んだ時と同じ、感動はなかった。
 トリックが抜群であり、ストーリー展開も抜群であり、よくできてはいるが、かつての感動がない。こうしたことに、感動するだけの感性が既になくなってしまったということであろう。
 老化してから読んでも面白い小説と、そうでない小説があるようだ。もはや、こうした小説は暇つぶしに読むようになったようだ。(2387)
posted by 矢島正見 at 12:59| 我流雑筆

2019年09月13日

9月9日 直撃台風

 9月9日午前3時、台風が我が家を直撃した。三階は風で揺れた。
 天井に入る出入り口の扉が突然、バタンと音を立てて開いた。分厚い辞書で扉を防いだが、辞書を跳ね飛ばして開いた。5冊の辞書を積み上げて、ようやく防いだ。
 久しぶりの「台風」と実感し得る台風であった。次の日は、三階にはまったく風の入らない無風の暑さであった。(2386)
posted by 矢島正見 at 10:27| 我流雑筆

2019年09月09日

冊子3冊

 『雲の向こうはいつも青空―不登校インタビュー事例集―』(Vol.1)(Vol.2)、『不登校日記 僕らの場合』を読んだ。『事例集』(Vol.1)と『僕らの場合』の一部は既読だったが、通しで読んだ。
 活動する夫婦の自費出版である。内容・表紙・写真・レイアウトのすべてがよくできている。表紙の絵はおそらくプロに依頼したのであろう。特に(Vol.2)の表紙はいい。
 自費出版とはいえ、出版のプロの腕前である。(2385)
posted by 矢島正見 at 13:52| 我流雑筆

2019年09月05日

まもなく秋

 9月になった。随分と日が短くなった。5時から「夕方」となり、6時半過ぎはもう「夜」である。
 朝晩は涼しくなった。パジャマを着て、布団の上で寝るようになった(それまでは、ランニングシャツで畳の上に寝ていた)。
 まもなく秋である。秋は好きだ。「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」「ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲」なんて、実に良い。
 しかし、その次に来る冬は嫌いである。
 一年が、4月・5月・5月・5月・5月・6月・9月・10月・10月・10月・10月・11月だとよいのだが。
 要するに、一日の最高温度が25度未満であり、最低温度が15度以上であること。この2つの条件の季節が良いということである。(2384)
posted by 矢島正見 at 10:57| 我流雑筆

2019年09月02日

『天命』

 『天命―すべて成就し、すべて現存す』を読む。自費出版の書である。私のところに献本されてきた。
 筆者は本書の初校終了直後に亡くなられたとのこと。それ故にか、書籍のレイアウトでとんでもない間違いを起こしている。編集担当者がしっかりと仕事をしていたか、疑わしい。ただし、体裁や表紙は申し分ないので、そちらのほうに能力のある編集担当者だったのかもしれない。
 400字詰原稿用紙二百数十枚の中編小説である。内容は、何とも言えない。きわめて抽象性が高い。ひと言で言えば「純文学」ということになる。批評は控えるが、「難しい本」ということだけ記しておこう。(2383)
posted by 矢島正見 at 11:49| 我流雑筆