2019年06月17日

『変身』A/3

 どうも私はこうした分析をしてしまう研究者としての癖がある。
 もし、本当に巨大な虫であるならば、一大ニュースである。現存するはずのない巨大な虫が現れたのだから、警察どころか軍隊が出動するであろう。新聞記者が殺到するであろう。各国から生物学者がやってくることであろう。それが現実である。
 しかし、小説の中の現実はまったくそのようなことはない。と言って、抽象性の高い記述ではなく、極めて具体的な日常が極めて妥当な日常的感覚で展開されている。グレーゴルは会社を首となり、生活が苦しくなり、退職していた父は働きだし、妹も働きだし、という現実が描かれる。それでも生活費が足りないので、余っている部屋を人に貸したりしている。

 毎日、食事(エサ)を与えて、部屋を掃除する妹。けなげである。しかし、大小便という排せつ物の掃除は描かれていない。どうしたことであろうか。最も重要な処理をしないで、部屋掃除をしているのである。グレーゴル自身、虫となった自分の睡眠や食事のことは述べているが、排泄のことは述べていない。「ウンコはどうした」と言いたくなる。

 父親の投げたリンゴが背中に突き刺さり、それが腐り化膿して、また衰弱で死んでいく。これは虫が鎧のような固い背をしているということと矛盾している。
 ここは、腹にあたり、蛇腹のような横の溝が傷つき、リンゴの汁が溜まり、腐り、化膿して死んだほうが現実的である。グレーゴルの虫は、死ぬまで一度も風呂に入っていないのだから、また衰弱していたのだから、傷口が腐り、死んでもおかしくない。

 こうした些細なところで、リアリティがない。思想小説の大きな欠点であり、思想にかぶれた人たちは大歓迎するであろうが、流行の思想が去って行くとたちまち陳腐と化す。
 「名作」「傑作」と言われているようだが、ニヒリズム・実存主義・不条理思想大流行の西欧の20世紀初頭という時代思潮そのものなのである。まさに典型的な思想小説である。あと50年評価がもつかどうか疑問である。(2359)
posted by 矢島正見 at 10:47| 我流雑筆