2019年03月29日

『中世の文学』

 唐木順三『中世の文学』を読む。「中世文学の展開」「鴨長明」「兼好」「一休」は良かった。「世阿弥」「道元」「芭蕉への道」は、よくわからなかった。
 唐木順三の著作の中では、仏教の開祖として道元、法然、親鸞、一遍は登場するが、最澄、空海、栄西、日蓮は出て来ない。唐木は道元と一遍を高く評価しているようだ。私としては一遍である。一遍はどこか若山牧水に通じるところがある。
 僧侶としては西行法師、鴨長明(法名は蓮胤)、一休禅師、兼好法師が論じられている。歌人・俳人・芸人としては世阿弥と芭蕉が高く評価されている。
 私としては、鴨長明と兼好法師である。

 鴨長明は、幼年の折、父を亡くしたがゆえに、跡目争いに敗れ、父の跡を継ぐことが出来ず、失脚する。その後出世を望み、和歌を詠み、琵琶を弾き、藤原定家を頂点とした宮中の伝統的和歌を懸命に真似るものの、ついには出世の道を閉ざされる。
 失意の中で、鎌倉の源実朝の元に行くも職を得ること叶わず、力尽き果て、京の日野の方丈庵(一丈四方)にて隠遁の生活に入り、そこで亡くなる。欲望と挫折の人生だったのである。
 『方丈記』は方丈の庵にて書かれたものである。
 以前、『方丈記』を読んで感銘した覚えがある。今回、彼のこうした生涯を重ね合わせてみると、『方丈記』の暗く重たい内容が、長明の生きた時代の暗さ・重さと長明自身の人生そのものから発した暗さ・重さであることがよくわかる。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の出だしは、欲望と挫折の末に行きついたが無常である。
 下加茂神社境内に方丈庵の復元が展示されているらしい。京都に行った折には見に行きたいものである。写真で見ると、3メートル四方の広さではあるが、なかなか洒落ている。もっとも、ボットン便所がどこにあるのかははっきりしない。

 兼好法師(吉田兼好)の『徒然草』は軽い。軽妙洒脱である。生きるもがきや苦しみがない。当事者の視点でなく外部の達観した目線で世を評論している。
 その眼差しは優しいようでいて、冷たい。貫徹したデカダンスであり、ニヒリズムである。
 出世・名声はもちろんのこと、芸も宗教も望まない。その点は、歌人のような芸への執着がなく、僧侶のような仏教への執着がない。世の中に対しても自分自身に対してもシニカルである。日本の室町時代のショーペンハウエル、ニーチェである。
 「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」という出だしも、長明とは全く異なっている。
 〈つまらない時代に、つまらなく生きた、つまらない俺が、つまらないままに、つまらないものを書いたので、つまらないあんたたちも、まあひとつ、つまらなく読んでやってくれ〉、といったところである。(2338)
posted by 矢島正見 at 11:18| 我流雑筆

2019年03月27日

さてさて、これからが本格的な春

 暖かくなった。最高温度が20度を超した。と思ったら寒さがぶり返してきた。冬の最後のあがきである。これからは、徐々にまともに暖かくなるであろう。着ていたものも一枚少なくなる。良い季節になっていく。嬉しい限りである。
 庭の桜の花が咲いた。張さんから贈られたさくらなので、我が家では「張さんさくら」と言っている。大した花ではないが、なかなかしぶとい桜である。
 本日、東京の八重洲に用事で出かけて行ったが、桜並木はほぼ満開になっていた。数名の外国人が写真を写していた。
 春には、目立たない、名も知らない、小さな花が、野辺に咲き誇る。そんな花がいい。雑草の花である。「雑草」と虐げられている草の花である。(2337)
posted by 矢島正見 at 13:23| 我流雑筆

2019年03月23日

『古きをたづねて』

 唐木順三の『古きをたづねて』を読む。「たづねて」とあるが、学術的随筆であり文学論であり、紀行文ではない。六つの随筆と付録から構成されている。「二月堂の修二會」「由良」「熊野」「後鳥羽院と定家並びに西行・長明」が良かった。
 「二月堂の修二會」では「行基」と「役小角(えんのおづの)」(一般には「役行者(えんのぎょうじゃ))との対比が面白い。共に民を「妖惑」する「外道」として王朝政権から追放されながら(ともに伊豆に流される)、行基はその後大僧正として迎えられ、役小角は招きを辞退して修験道の開祖となる。
 この両者を対比するような映画があってもよい(既にあるのかもしれないが)。
 「由良」は「覚心」と「一遍」の出会いである。「智眞房一遍」の念仏開眼がこの由良であったという。ちなみに、この時一遍は妾とその娘を連れての旅であった。
 「熊野」にも一遍が登場する。唐木順三の一遍への関心はなみなみならない。なお、一遍の死後、時宗の僧は従軍僧として、戦場での死体の片付け等をしていたとのこと。初耳であるが、理解し得る。踊念仏の僧や信者には、エタ・ヒニンが多くいたということがわかっているからだ。そういうことでは、最下層の人たちが信心した宗教だったのかもしれない。
 「後鳥羽院と定家並びに西行・長明」は後鳥羽院と藤原定家の和歌での対立を描いたものである。ここでは「みやび」最後の後鳥羽院と「すき」への西行の時代移行が面白い。(2336)
posted by 矢島正見 at 21:52| 我流雑筆

『古代史試論』

 唐木順三『古代史試論』を読む。論文・随筆集である。
 「第一部」では「仁徳記」「仁徳陵と古事記」「飛鳥寺」が良かった。「第二部」では「言霊と言学」が良かった。あとは難しすぎた。
 一昔前までは、唐木順三のような偉大な知識人がいた(注:当然のことであるが、テレビに出てくる、知名度だけは高い、いわゆる「識者」という類の者とは異なる)。専門の学者でありながら、幅広い教養をもち、スケールの大きな構想を論理的に展開した。
 梅原猛が亡くなった。この人もその中の一人だった。
 しかし今は学問が細分化されてしまい、全体的でかつ学際を超えたスケールの大きさで時代と社会と文化と人間を語る人はいなくなってしまった。
 ひと昔前の時代ではそのような人を必要とし、今は必要としない、ということのようだ。(2335)
posted by 矢島正見 at 00:01| 我流雑筆

2019年03月20日

『日本の心』

 唐木順三『日本の心』を読む。論文・随筆集である。
 「1-1 自然といふこと」「1-2 任すといふこと・その系譜」「1-3 おそれといふ感情」「2-1 芭蕉の一句」「2-2 人物再発見―一遍―」「2-3 正法眼蔵隋聞記について」「3-6 東尋坊―八百清顕がこと―」は良かった。他はぴんとこなかった。
 「自」という字は面白い。「自(みずか)ら」という主体的自己を表していると同時に、「自(おの)ずから」という成り行きに任せる自己をも表している。その両者の「自」が対立することなく、区別されることなく人の中に存在しているのである。「自然」と「自分」との一体性である。まさに日本人の心の中では、自分は自然であり、自然は自分である。「自らは自ずから」となり「自ずからは自らとなる」のである。
 もちろん、これは唐木順三氏からの受け売りである。(2334)
posted by 矢島正見 at 18:17| 我流雑筆

2019年03月17日

現代川柳的名言

 「ハードルは 高ければ高いほど くぐりやすい」
 ネットを見てたら出て来た。笑ってしまった。しかし、これは名言である。大げさに言えば、常識を覆すパラダイム変換である。
 人生行路の目の前にハードルがある。何も考えずに、行こうとすれば、跳び越える人生となろう。もちろん、そこで、たたずんでしまう人生もあろう。
 しかし、先を行くにしても、「跳び超える人生」だけでなく、「くぐり抜ける人生」の選択もあろう。
 跳び越えるのもくぐり抜けるのも、共に先を進む人生だ。ハードルに正面から対決する人生だ。ならば、跳ぶのも人生、くぐるのも人生。跳ばねばならぬ、ということはない。(2333)
posted by 矢島正見 at 12:43| 我流雑筆

2019年03月15日

続々・読む

『心理職・援助職のための法と臨床』ならびに『子育て困難家庭のための多職種協働ガイド―地域での専門職連携教育(IPE)の進め方―』を読む。
 タイトルやサブタイトルに「心理職・援助職のための」「多職種協働ガイド―地域での専門職連携教育(IPE)」とあるように、ともに専門書である。また、「ガイド」とあるように、ともに専門職の方々に対してのハウツウ本である。
 コメントも感想も難しい。『警察官という生き方』のような、一般の方が読んで楽しい本では決してない。ただ、読んだということだけ記しておく。(2332)
posted by 矢島正見 at 11:30| 我流雑筆

2019年03月10日

続・読む

 『警察官という生き方』を読む。
 実に面白い本である。一般大衆向けであり、わくわくして読める。つまらん小説やアニメ、映画よりもよほど面白い。止めらず、夜明け近くまで読んでしまった。(2331)
posted by 矢島正見 at 13:20| 我流雑筆

読む

 『雲の向こうはいつも青空』『不登校日記―僕らの場合』『サイゾー(3月号)』を読む。『不登校日記―僕らの場合』は、この続編が欲しい。(2330)
posted by 矢島正見 at 13:18| 我流雑筆

2019年03月06日

 3月になりました。もうすぐ春です。
 日は随分と長くなりました。嬉しいことです。なんとなく、だんだんと温かくなって来ています。
 でもまだまだ寒いです。冬の終わりにしとしとと降る雨は、無情なほどに冷たい雨です。
 朝、寒くて布団から出られない季節から、「春眠暁を覚えず」の季節に早くなってほしいものです。まもなくです。もうすぐ春です。(2329)
posted by 矢島正見 at 21:39| 我流雑筆

2019年03月01日

『子ども・若者が変わるとき』(下)

 ただし、批判もある。本書の批判ではない。もっと、本質的な批判である。
 近年、「青少年」という言葉が少なくなり、代わりとして「子ども・若者」になってきている。『青少年白書』も今では『子ども・若者白書』である。そして本書でも『子ども・若者』である。
 現在、「幼児」「児童」「少年・少女」「青年」「壮年」「中年」の問題の境界があいまいになってしまっているのである。
 各地方自治体の「青少年条例」での「青少年」は「0歳児から」となっている。
 「ひきこもり」では50歳代のひきこもりが問題化している。
 「子どもの貧困」とは「親の貧困」であり、貧困のまま結婚して子どもをつくった「若者の問題」なのである。
 「保育園が足りない」などは、親の問題なのか、乳幼児の問題なのか、労働問題なのか、育児問題なのか。
 老親に子どもの面倒を見てもらえないとう、いかなる理由があるのか。核家族は果たして理想家族なのか。「愛」だとか「合意」だとかいう理念に囚われず、機能として家族とは何か、ということを考え直す時代に来ているのではないだろうか。(2328)
posted by 矢島正見 at 23:33| 我流雑筆