2018年12月29日

『放浪記』A/8

 全体的に、日記体で書かれている。日記体は読みやすいのが相場であるが、実に読み辛かった。『土』のような読み辛さではなく、前後のつながりがわからないのである。
 日記であるがゆえに、前後の時間的経過が文脈としてわからないところが多々ある。いや、大半がわからない。
 その間にどのような経過があったのか、ト書き程度でも書くのが読者サービスではないかと思うのだが、そのような配慮は一切ない。当時の読者も今の読者も想像で補うしかない。
 文中の「*」が節に相当する。ここで、日記が数か月跳ぶ。「三月」は「七月」になり、「七月」は「十二月」になる。
 下宿先も変わっている。職場も仕事も変わっている。何時越したのか、いつ職が変わったのか、どのような事情で変わったのか、記述はない。おそらく、大半は自ら職を辞めたのであろう。にもかかわらず、「明日の米もない」と訴える。職業紹介所に足を運ぶ。借金をする。子どもの頃の成育歴がどのようなものだったのか、理解できる生活である。まさに「放浪」で育った子である。
 登場人物も変わっている。変わらないのは、自己の惨めな独白である。そして、実母と養父を想う心であり、尾道を想う心である。
 読みだして最初に思ったことなのだが、女の書いた日記ということがよくわかる小説である。男は具体的事実を克明に描く。ところが、女は喜怒哀楽を克明に描く。『放浪記』は林フミコの喜怒哀楽の青春記である。
 なお、最初にフミコ(芙美子)の履歴が欲しかった。その一覧表があれば、かなり読みやすかったと思う。(2303)
posted by 矢島正見 at 00:28| 我流雑筆