2018年10月30日

『最終戦争論』

 石原莞爾『最終戦争論』を読んだ。
 石原莞爾といっても、知る人は少ないであろう。満州王国をつくった立役者である。北一輝ほどの論客ではないが、実行力は彼以上であった。東条英機ほどの馬鹿(石原の言)ではないが、東条ほどの政治権力はなかった。その石原莞爾の『最終戦争論』を読んだ。
 いつの時代にもいるような人物だ。幕末にも随分といた存在だ。今では英雄とされている幕末の志士たちは勝海舟を除いては、皆、石原と基本的にはまったく同じと思える。成功した者と失敗した者との差である。もちろん、日清・日露戦争の頃にも当然いた。無数にいたであろう。そして数名はやはり英雄とされている。
 優等生であり、秀才であり、努力の人であり、天皇崇拝の帝国主義者であり、正義のイデオロギストであり、誇大妄想の理想主義者であり、統率力があり、人を動かす才があり、政治策略家であり、一か八かの冒険主義者であった。
 彼の天皇史観を削除し、冒険主義を薄め、時代認識を現代に当てはめて修正すれば、今でも彼の言っているようなことを論じている偉い人たちが右にも左にもかなりいる。
 そういう人たちが成功し名を成すか、とんでもない犯罪人になるかは、歴史次第である。もちろん、人類の歴史が断絶しないという前提であるが。(2285)
posted by 矢島正見 at 12:57| 我流雑筆

2018年10月26日

『新宿 「性なる街」の歴史地図』

 三橋順子『新宿 「性なる街」の歴史地図』(朝日新聞出版社、2018年10月)を読んだ。大変な力作である。氏の今までの努力の結晶と言えるであろう。しかも、読みやすいし、面白い。誰でも面白く読める。お勧めの一冊である。
 写真・地図がふんだんに使われていて、これが読みやすさ・面白さの一つであり、また今では常識とされている言説を覆す「目からうろこ」の事実が、面白さの今一つを創っている。歴史学者の実証主義に貫かれた書であり、ヒューマニズム正義イデオロギーだけの書ではない。
 7章構成であり、コラムが7本入っている。そのコラムがまた充実している。
 ただ、「第6章」「コラム6」「第7章」「コラム7」になると、かなり専門的となり、マニアックとなる。
 よって、「赤線」に興味のある一般の読者の方には「第4章」「コラム4」までを、そしてタイトルにあるように「新宿の赤線・青線も知りたい」という方には「第5章」「コラム5」までをお勧めしたい。
 またさらに、「もっと知りたい」という方には、当然、「第7章」「コラム7」までのすべてをお勧めする。(2284)
posted by 矢島正見 at 18:59| 我流雑筆

2018年10月24日

誤解が生じないようにC(完)

 文章を書き出すと、本を読むのがおっくうになる。本を手に取る気がしない。次から次へと文章を書いていく。
 しかし、何らかの理由で、それが中断される。査読のために読まなくてはならない。「自著を語る」コーナー掲載の本を読まなくてはならない。『青少年問題』の精読・校正をしなくてはならなくなる。等々。とにかく、読む必要に迫られて読みだす。と、その途端に書くのが嫌になる。
 孫が泊まりに来る。理事会に出る。研究会に出る。等々の、読まない用事の場合には、その前に書くという行為が行われていれば、書くということに戻りやすい。逆に、その前に読むという行為が行われていれば、読むということに戻りやすい、ということになる。中断されても、継続性は喪失しないのであるが、一度読みだすと、そうはいかなくなる。
 こうして、「読む」と「書く」は、交互に進行していく。(2283)
posted by 矢島正見 at 22:07| 我流雑筆

2018年10月22日

誤解が生じないようにB

 今年になって、随分と論文・本を書いた。
 正月が明けてから一つの本に挑戦した。3月末まで続いた。そして、はっと気づいた。早急にやらなければならないことがあったのだ。慌ててやり出した。4月末までかかった。
 5月からは、論文の執筆となった。それがほぼめどがついたところで、中断した。これ以上は、少し寝かせておこうと思った。締め切り期限はまだ遠い。
 二つ目の論文にかかった。これは期限が迫っている。しかし、5月末、余裕をもって完成することが出来た。
 そして3月末までやっていた本の続きにまた戻った。しかし、先が見えたところで、挫折した。読み直す必要のある難解な書籍群が立ちはだかった。
 夏になり、自分史を書き出した。これは書籍執筆での「背後仮説」としてごく簡単に書いたのがきっかけであり、また息子が「清正伝」をパソコンに打ち直したのが、さらに刺激となった。32歳まで、次から次へと書いて行ったら、結局400字詰め原稿用紙で300枚以上になった。
 ようやく自分史を書きあげて、10月からまた、中断した論文の執筆にとりかかった。大幅に構成を変更した。そしてようやく完成したが、制限枚数をオーバーしている。これ以上削れないので、弱っている。
 これから韓国での韓日少年非行学術交流会の基調講演の原稿に着手する。
 なお、5月末に完成した原稿がようやくでた。「社会経済状況の変化と高齢者万引き・万引き高齢者」日本犯罪社会学会編『犯罪社会学研究』No. 43(2018)15-24頁(2282)
posted by 矢島正見 at 09:42| 我流雑筆

2018年10月19日

誤解が生じないようにA

 この「我流雑筆」に掲載した文は、掲載時と執筆時が異なる。時間にずれがある。短い場合でおよそ1週間、長い場合では1年間である。ネットに書かれた文章の引用・感想では、1年以上経ってから掲載することもあるし、結局は掲載しないこともある。(2281)
posted by 矢島正見 at 23:05| 我流雑筆

2018年10月16日

誤解が生じないように@

 読書感想・書籍評論みたいなことばかり書いていると、とうとう私が老後生活になったかと感じる人が多いことであろう。
 しかし、読む本の中の半分は、私に送られてくる献本であったり、雑誌『青少年問題』の「自著を語る」コーナー掲載の書籍を選定するためであったりする。
 近いところでは、『心意気と美学』『社会安全政策論』『気ままに警備保障論2』『警備ビジネスで読み解く日本』『ヤクザの幹部をやめて、うどん店はじめました。』『青少年の性行動』は、こうした目的で読んだものであり、まったく個人の好みのみの選定で読んだのは、『俘虜記』『津軽通信』『シッダールタ』『若山牧水』『土』である。(2280)
posted by 矢島正見 at 15:06| 我流雑筆

2018年10月14日

保土ヶ谷宿場まつり

 秋に行われる「保土ヶ谷宿場まつり」。今年で29年目である。実に盛大になった。今では保土ヶ谷区最大のイベントである。
 300メートルほどの商店街と、「イゴット広場」には、始まり直後から終了直前まで人の山である。数千人がひしめき合う。一日3回転として2日間なので、述べ2万人ほどは集まったのではないかと思える。
 最初の頃は、正直、ちんけな祭りであった。これほどまでに盛大になるとは思わなかった。やはり、持続は力である。(2279)
posted by 矢島正見 at 12:53| 我流雑筆

2018年10月11日

孫・孫・孫・孫・孫

 5人の孫。土曜日は一番下の孫の運動会。1歳の孫がお母さんではなくばあばと出場、ついでに四年生のお兄ちゃんも出場。お父さんとじいじは撮影係。
 日々、成長している。保育園から帰るときもじいじの家から帰るときも挨拶は同じ。「じいじ、ばいばい、また遊ぼうね」である。
 5人の孫。日曜日と月曜日は「保土ヶ谷宿まつり」。4人の孫たちのお泊り。8畳の畳の部屋に6人が寝る。小学三・四・五年生なので、かなり大きくなっててきている。それが、ごろごろと寝る。そして、それが実に楽しいらしい。
 一緒に遊ぶだけでなく、一緒に食事をする、一緒にふろに入る、そして一緒に寝る。こうした共同生活行為のすべてが楽しいということだ。人類という種の共同生活の遺伝子なのであろう。(2278)
posted by 矢島正見 at 12:05| 我流雑筆

2018年10月08日

『土』G(完)

 さらになお、汚いことが書かれてあってもよかった。エロとグロである。
 ウジ、蝿、蚊、毛虫、蛾、百足、げじげじ、イモリ、ヤモリ、蛇、等々。便所の汚さ、糞のこびりついた尻をした子供、全身皮膚病でただれた肌をした老人、栄養失調で下痢ばかりしている人、そんな汚い人々を描かなかった。
 野外での男女の小便、野糞や野外での性交の描写もない。
 特に祭りの夜の村の若い者たちの性的描写や念仏行事でのじいさんやばあさんたちの猥談話などあってもよかった。民俗学者の宮本常一のように。
 その点では、長塚節は真面目過ぎたのであろう。品が良すぎたのであろう。生れが良すぎたのであろう。(2277)
posted by 矢島正見 at 17:07| 我流雑筆

2018年10月06日

『土』F

 終わりのほうになって、出火した。卯平と与吉の火の不始末から、家が全焼した。それだけでなく、炎は林を越え隣の地主の家へと飛び火し、隣家も燃えてしまった。これがこの小説のクライマックスとなる。
 小作農ならこれで終わりである。火事は村では最大の恐怖であり、最大の悪事であり、火を消すまでは村中総動員で事に当たるが、消し終わったら、地主の家まで燃やしてしまったのだから、追放は免れないし、警察の捜査も入る。
 しかし、おかしなことに、南の地主のかみさんの実に心優しいこと。このかみさんが、長塚節の母親であると推定すれば、理解できる。描写は自然主義を基調としつつも、根底としての長塚節の背後仮説が露骨に出てしまっている。
 そうなると、大地主の息子が、若くして肺結核となり、なんの働きもせずに、文学を志し、手帳をもって村を歩き回り、見聞きを記述して出来上がった小説という長塚節の限界が見え隠れする。自分の家族も村の人たちも、皆心優しい人たちとして描かれていることがよく理解できる。
 上流インテリ階層の夏目漱石では、それがわからなかったのであろう。いや、漱石だけでなく、明治時代では、小説を書くということ自体、上流インテリ階層青年の世界だったのであろう。
 こうした視点から眺めると『土』は、一部の視点に立っての、あるひとつのリアリティと言わざるを得ない。いっそのこと、肺結核となった大地主の息子(長塚節自身)を登場させればよかった。
 結局、有島武郎の『カインの末裔』のような、惨めな・残酷なラストシーンは望みようもなかった。(2276)
posted by 矢島正見 at 14:28| 我流雑筆

2018年10月04日

『土』E

 村の隣近所での肺結核患者を描かなかったのは何故か。肺結核は、当時もっとも一般的な病気であり、最も一般的な死亡原因であったはずだ。
 勘次一家族だけに物語を限定したのは、人間関係の展開としてはわかりやすかったが、村全体を描くことには欠けている。時代の貧乏・不潔・狡猾・不幸を描くには、一家族だけでは物足りない。
 その点で、リアリティの欠如が見えてくる。写実主義だからリアリティというわけにはいかない。何処に視点を置くか、そこが問題である。一つの視点だけでは、一点のリアリティとならざるを得ない。
 ボケのじいさんを抱えた家族、食い物を与えず老親を殺す家族、生まれた子が何故か次から次へと死んでいく家族、肺結核患者を納屋の中に放置する家族、家出して今どこに住んでいるのかわからない長男にいつまでもこだわる家族、狡猾で口だけはうまい寺の僧侶、一日中酒を飲んでいる地主の息子、等が写実主義で描かれていたら、それこそ、貧しい時代の貧しい農村の貧しい人々の大展開となったことであろう。(2275)
posted by 矢島正見 at 23:14| 我流雑筆

2018年10月02日

ニュースから(1)「ただ今、自転車で日本一周中」

 「法痴国家ニッポン」(7月21日:2245)へのコメントにて、広島の脱走のことに触れた。今回も脱走である。
 ただし、今回は軽い犯罪者ではない。その点、広島のケースとは全く異なる。しかし、面白い。まずは記事から。

 「逃走 日本一周装い素顔で写真 10/1(月) 16:26 掲載」
 「自転車で道の駅を訪れた樋田淳也容疑者=山口県周防大島町で2018年9月25日、岡崎竜一さん提供(毎日新聞)」
 「<富田林逃走>「ただ今、自転車で日本一周中」素顔で写真」
 「◇山口の道の駅に1週間滞在 支配人の頼みに気軽に応じて」

 「大阪府警富田林署から逃げた樋田淳也(ひだ・じゅんや)容疑者(30)=加重逃走容疑で再逮捕=が、山口県周防大島町の道の駅「サザンセトとうわ」に約1週間滞在していた。道の駅の支配人の記念撮影にも素顔をさらして気軽に応じ、「必ず日本一周を達成します」などと記した置き手紙も偽名で残していた。府警は、自転車旅行者であることを大胆に装うことで、逃走の発覚を免れようとしていたとみて調べている。(毎日新聞)」

 これをネタにして映画化が可能ではないか。実に大胆である。発想の転換を図っている。こうした逃走を予測した警察関係者・犯罪研究者そしてマスコミ関係者がいただろうか。少なくとも私は驚いた。
 第一に、「自転車で日本一周中」という思い付きと、その実行だ。考えてみれば、こそこそ逃走するよりは、合理的である。堂々と逃げられる。
 第二に、写真を堂々と撮らせている、ということだ。「ここまでやるのか」と、その大胆さに驚く。犯罪者(特に、ヤクザや知能犯)特有の、言うなれば「神をも恐れぬ」行動である。
 結果的には、これは成功していた。眼立つ行動をとり、顔を堂々とさらしながらも、誰一人として疑わず、通報しなかったのである。
 そして、ちんけな万引きで捕らえられてしまった。この点では、ごく普通の逃亡であり、逮捕であった。

 なお、これから時々「ニュースから」を掲載していく予定でいる。そこには、かなり古いものもある。(2274)
posted by 矢島正見 at 23:00| 我流雑筆