2018年09月30日

『土』D

 しかし、気に食わないところもある。嫁の「お品」を早く死なせすぎた。もう少し生かせておいたほうが、貧乏の辛さがよくわかる。お品の貧乏描写がすぐに終わってしまったのは、物足りない。お品はもっともっと苦労して、惨めに生きて惨めに死んでいったほうが小説としてはよかった。
 その点、祖父の「卯平」は長く生き過ぎた。80歳をとうに過ぎ、小説の最後の最後まで生きていた。盛り上がりも何もなく、ただそれなりに貧しいというだけで生かせ過ぎた。後半の部分あたりで死なせたほうがよかった。たった一人で意地を張って働き、たった一人で生き、たった一人で死んでいったほうがよかった。たとえば、麦飯を口の中にほおばったままの死骸が土間に落ちていた、という描写でよかった。
 娘の「おつぎ」は、婚期を逸してしまったようだ。父の勘次(お品の夫)に従順過ぎた。また、出来過ぎの娘として描かれている。自然描写と言いながら価値が混入している。
 このおつぎに関しては、当時の平均的人生行路の描写として、年齢的にやや遅い結婚をして、同じ村に住むという物語の展開でよかった。それでこそが自然主義・写実主義小説であろう。
 「与吉(勘次の息子・おつぎの弟)」は、最後までだらしなかった。既に数えで10歳か、それ以上になったであろうに、卯平に小遣い(五厘・一銭)をねだるだけの存在だ。
 既に、極貧の農家であるならば、労働力として生活の一端を担い出していなくてはならないはずなのに、最後の最後まで、役立たずの、銭をねだり、食い物をねだるだけの子倅として描かれている。
 小学校を卒業したら働き手になるだろうという勘次の認識は、極貧家族の認識ではない。子どもは学校に行けずに働かざるを得ないのが大正時代の極貧家族である。(2273)
posted by 矢島正見 at 17:30| 我流雑筆