2018年07月13日

ワールドカップE サッカーはだめなスポーツである・その2

 そうまでしても、やはりサッカーはダメなスポーツである。
 選手が接触した時、どれほどのダメージを受けたのか、ビデオでも判定は不可能である。大げさな被害態度・虚偽の被害態度が認められるようなスポーツはもはやスポーツとは言えない。それがテクニックであるという解説者の言葉を聞くとげんなりする。
 スポーツにごまかしがあってはならない。陸上競技でも水泳でもスキーでも、100分の1秒という厳格さで判定される時代なのである。
 こうしたことをどのように解決するのかFIFAには解答がない。ないはずである。現在の科学では、人の心の苦しみや痛みを瞬時に客観的に判定し得ないからだ。
 当事者が苦しいと言えば、今現在の時代の主流となっている当事者主義の立場ではそれを認めないわけにはいかない。サッカーだけでなく、いやスポーツだけでなく、すべての現在の事象に突き付けられた問題であり、それを社会は解決していないからである。
 外科医の診断であるならば、骨折している、脱臼している、傷口深さ1センチの重傷というくらいの判断でレッドカードであり、PKということでは大げさすぎる。しかし、それよりも軽傷の場合は、判断付きにくい。
 にもかかわらず、大げさにわめきたてるのが今のサッカーである。それを見ると実にげんなりする。わめきたてた方が正義というまさに現代そのもののスポーツである。
 サッカーはそうした矛盾が典型的に表出されるスポーツなのである。それ故に、科学時代には、残念ながらなじまないスポーツである。
 現時点で、こうした試合状況に決着をつけるのであれば、つまり判定を下すのであれば、倒されて痛み苦しんでいる場合には、倒した側を退場させると同時に、痛み苦しいのだから倒された側も退場していただくということしかない。「喧嘩両成敗」という日本の古い判断である。そうすれば、嘘の被害者ポーズは減少することであろう。
 こうした認識をFIFAが持っていれば、まだ救えるのであるが、そうではない。それ故に、サッカーというスポーツはFIFAがあるがゆえに衰退していくことであろう。衰退して、あわてても、後の祭りである。ヘーゲルの弁証法の基本がわかっていない。簡単なことである。「おごれるもの久しからず」である。
 後進国にとって、ボール一つあれば楽しめた、実に平等で自由なスポーツであったが故に、サッカーは貧しい国々に浸透していった。しかし、バットもグローブも誰もが買える時代では、至る所にゴルフ場ができる時代では、サッカーの存在意義は希薄化せざるを得ない。貧しい人のスポーツの時代は去って行かざるを得ないのである。
 それに甘えていたFIFAが傲慢でいられる時代はあと20年であろう。FIFAが消滅し、サッカーが残る。そういう時代を期待する。(2242)
posted by 矢島正見 at 00:28| 我流雑筆