2018年07月29日

『シッダールタ』

 ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』を読んだ。今から50年ほど前に『車輪の下』を読んで感動した。今回は、残念ながら、面白くなく、途中飛ばし飛ばし読んだ。
 背景の思想に無理がある。それを物語化するのにも無理がある。今ならば、出来の悪い小説なのだが、当時の思想状況では、絶賛されたのであろう。文学などというものはそんなものである。ヘッセだけではない。
 私が老いたことが一因であろう。しかし、今の若い人でも面白いと思う人はごく少ないのではないだろうか。感動するなど、皆無かもしれない。時代がこのような小説を求めなくなったのであろう。
 既に時代は純文学の時代ではない。「文学自体が問われている」なんてずっと以前言われていたが、今はそんないい加減な時代ではない。文学無用時代になりつつある。少なくとも「純文学」は死滅している。シロウトが、喜怒哀楽を過激に告白した方が感動する時代である。
 このような時代では、ノーベル平和賞とともにノーベル文学賞も、もはや不要であろう。少なくとも、毎年無理して選出する必要はない。いや、受賞者不在の文学賞を授与してもいい。例えば、「今年のノーベル文学賞受賞者、紫式部」とか。(2249)
posted by 矢島正見 at 17:39| 我流雑筆

2018年07月28日

『津軽通信』

 太宰治の『津軽通信』を読んだ。
 高校から大学にかけて、太宰治のファンであったが、この歳になって読み直してみると、太宰文学は青年文学であると同時に大衆文学である、と思える。
 観念的であり、心情的である。主人公がどのような生活をしているのかよくわからないにもかかわらず、生活感があふれている。それを実に素直に、かつ分かりやすく提示する。青年の心をつかんだのは、その点にあったと思える。
 青年は、生きるという現実性は乏しいのだが、実在感は充満している。そうした当時の青年は太宰の感性と共振したのだ。
 太宰の文体の特徴は、第一人称の告白体というところにある。しかし、「私小説」というジャンルで括るにはあまりにも「私」すぎる。私小説作家の中でも特に、太宰は自分のことを好んで書いた。しかも、自虐的な自分を好んで描いた作家である。
 織田作之助、坂口安吾と比べてみると、坂口安吾ほど観念的ではなく、織田作之助ほど具体的ではない。中間である。《私的感性から自虐的に自己表現した作家》と言えよう。
 さて、『津軽通信』には20の短編が掲載されている。その半分が成功していて、半分が駄作である(もちろん、これは素人の私の評価である)。成功の半分は、太宰の感性がうまく小説になっている作品である。また、ショートショートストーリーのような、超短編ものも、感性がうまく出ている。
 太宰はストーリーテーラーである。自分自身を追い込んで、追い込んだ自分を追い込まれたかのように書くのを得意としたストーリーテーラーである。
 〈あえて自己を追い込んでおいて、追い込まれた自己を告白調に書く〉と、こんな作家が今いるであろうか。その点では、太宰はやはり時代を生きた代表作家である。(2248)
posted by 矢島正見 at 16:13| 我流雑筆

2018年07月26日

『社会安全政策論』

 警察政策学会編『社会安全政策論』を読んだ。警察中心の社会安全政策論である。
 ケチをつけるところはまったくないのだが、ただひとつ、社会安全政策論は法政策学である、と述べられている点が気になった。
 刑事政策とどう違うのだろうか。また、刑事政策はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。(2247)
posted by 矢島正見 at 00:11| 我流雑筆

2018年07月23日

『心意気と美学』

 池田敏秀氏の『心意気と美学』を読む。以前に同名の書籍を出しているので、やや不思議に思った。大概は、こういう場合には『心意気と美学(2)』とか『続 心意気と美学』にするのだが。
 ただ、違っているところがある。ペンネームである。前回では「by 団塊農耕派」であったが、今回は「by 竹炭木屑子」となっている。「たけすみ きくずし」と読むのであろうか。
 氏によれば、前回は「スケベ心」があって「気取ってしまった」という。そこで今回は心を改めて、ペンネームも改めたという。私としては「スケベ心」があって大いに結構だと思うし、さほど気取ってもいないと思うのだが。
 前回同様、今回も『日本商業新聞』に掲載されたコラムである。そして前回同様、今回も202本のコラムが掲載されている。計404本である。よくもまあ続くものだと感心する。
 池田氏とは60年近くの付き合いである。つまり、私の中学の同級生である。
 以来、随分とお世話になった。下町育ちでマンモス小学校出の私が田舎の一学年に二クラスしかない中学校に行き、いじめられなかったのも、池田という番長と仲良くなったからである。(2246)
posted by 矢島正見 at 22:49| 我流雑筆

2018年07月21日

「法痴国家ニッポン」

 『サイゾー』という摩訶不思議な雑誌が毎月送られてくる。その中に、河合幹雄氏が「法痴国家ニッポン」という専門随筆を書いている。毎回愛読している。今回(7月号)は「広島の脱走潜伏事件に見る“開放刑務所”の奇跡的大成功」というタイトルで書かれている。
 私も同じ見解である。本来ならば保護観察で良い。それを法務省が欧米をまねしたのか、欧米のやることはすぐに研究者が指摘するので、やらざるを得なかったのか、とにかく“開放刑務所”なるものを作った。彼はそこに入れられた。社会内処遇で十分であったのに。厳罰化という時代の流れなのかもしれない。
 この事件で、私が連想したのは吉村昭の『破獄』である。映画にもなった。その主人公ほどの身体能力と頭脳を持っている人物であると思われる。私が中小企業の社長であるならば、出所した彼を雇い入れる。(2245)
posted by 矢島正見 at 16:53| 我流雑筆

2018年07月19日

ワールドカップG サッカーはだめなスポーツである・その4

 今回はサッカー批判ではなく、オリンピック批判である。
 オリンピックにサッカーはいらない。東京オリンピック以降のオリンピックは極度のメダボであり肥満児である。ワールドカップよりもよほど重症である。
 もしどうしてもサッカーが欲しいのであれば、そしてオリンピック組織委員会が土下座して頼むのであるならば、オリンピックとは別組織で、「オーバー40」でやればよい。しかも、前回のワールドカップ決勝戦に出場した国だけの選抜で良い。
 もちろん、オリンピックの開催地でやる必要もない。決勝戦だけ、オリンピックの開催地でやればそれでよい。
 つまり、ごく質素に、時間と尽力と経費をかけずに、またオリンピックに迎合せずにやればよい、ということだ。
 再度述べておく。「オーバー35」ではなく、「オーバー40」である。(2244)
posted by 矢島正見 at 23:23| 我流雑筆

2018年07月16日

ワールドカップF サッカーはだめなスポーツである・その3

 後半を終えて同点。延長でも同点。サッカーほど同点という競技は珍しい。そうなると、PK戦となる。同点の試合が多いということはこのPK戦で決まる試合が多いということだ。4年に一度の世界一を決めるのにあまりにもPK戦での決着が多すぎる。
 サッカーファンから苦渋が出ないのが実に不思議だ。サッカーに慣れ親しむとサッカーを外から見ることが出来なくなる、見たくなくなる、ということだろう。誰でも慣れ親しんだ方法が良いという傾向をもつ。
 私のように大したサッカーファンではない人間のほうが、そして、抜きんでて好きなスポーツはないという人間のほうが、他のスポーツと対比してサッカーを熱狂せずに見ることが出来るのであろう。
 そうすると、正式な競技方式とPK戦方式の極度な断絶に違和感を抱く。両方式にはあまりにも差がありすぎる。11人のプレイヤーで競ってたスポーツが突如一対一の対決となってしまうのだ。
 思うに、延長戦とPK戦の間に今ひと工夫が必要だ。それでも決着のつかないときの最後の最後としてPK戦を残しておくべきだ。例えば、11人を7人にして再延長戦を行う、というのもよいだろう。(2243)
posted by 矢島正見 at 22:29| 我流雑筆

2018年07月13日

ワールドカップE サッカーはだめなスポーツである・その2

 そうまでしても、やはりサッカーはダメなスポーツである。
 選手が接触した時、どれほどのダメージを受けたのか、ビデオでも判定は不可能である。大げさな被害態度・虚偽の被害態度が認められるようなスポーツはもはやスポーツとは言えない。それがテクニックであるという解説者の言葉を聞くとげんなりする。
 スポーツにごまかしがあってはならない。陸上競技でも水泳でもスキーでも、100分の1秒という厳格さで判定される時代なのである。
 こうしたことをどのように解決するのかFIFAには解答がない。ないはずである。現在の科学では、人の心の苦しみや痛みを瞬時に客観的に判定し得ないからだ。
 当事者が苦しいと言えば、今現在の時代の主流となっている当事者主義の立場ではそれを認めないわけにはいかない。サッカーだけでなく、いやスポーツだけでなく、すべての現在の事象に突き付けられた問題であり、それを社会は解決していないからである。
 外科医の診断であるならば、骨折している、脱臼している、傷口深さ1センチの重傷というくらいの判断でレッドカードであり、PKということでは大げさすぎる。しかし、それよりも軽傷の場合は、判断付きにくい。
 にもかかわらず、大げさにわめきたてるのが今のサッカーである。それを見ると実にげんなりする。わめきたてた方が正義というまさに現代そのもののスポーツである。
 サッカーはそうした矛盾が典型的に表出されるスポーツなのである。それ故に、科学時代には、残念ながらなじまないスポーツである。
 現時点で、こうした試合状況に決着をつけるのであれば、つまり判定を下すのであれば、倒されて痛み苦しんでいる場合には、倒した側を退場させると同時に、痛み苦しいのだから倒された側も退場していただくということしかない。「喧嘩両成敗」という日本の古い判断である。そうすれば、嘘の被害者ポーズは減少することであろう。
 こうした認識をFIFAが持っていれば、まだ救えるのであるが、そうではない。それ故に、サッカーというスポーツはFIFAがあるがゆえに衰退していくことであろう。衰退して、あわてても、後の祭りである。ヘーゲルの弁証法の基本がわかっていない。簡単なことである。「おごれるもの久しからず」である。
 後進国にとって、ボール一つあれば楽しめた、実に平等で自由なスポーツであったが故に、サッカーは貧しい国々に浸透していった。しかし、バットもグローブも誰もが買える時代では、至る所にゴルフ場ができる時代では、サッカーの存在意義は希薄化せざるを得ない。貧しい人のスポーツの時代は去って行かざるを得ないのである。
 それに甘えていたFIFAが傲慢でいられる時代はあと20年であろう。FIFAが消滅し、サッカーが残る。そういう時代を期待する。(2242)
posted by 矢島正見 at 00:28| 我流雑筆

2018年07月09日

ワールドカップD サッカーはだめなスポーツである・その1

 サッカーは面白いスポーツである。しかし、決定的にダメなスポーツである。
 五体満足な人間が手を使うことを禁止するということ自体がそもそも不自然である。身身体障害者に適したスポーツである。両手が不自由な人が行うスポーツである。
 テレビを見れば、いたるところで、常に手を使っている。そしてそれが大げさな場合は、イエローカードになったりPKになったりするのである。審判のご都合主義も甚だしい。しかも、厳罰主義化してきている。わずかなことでも見逃さないのが優れた審判と思われている。
 もし、こうしたことを防ぐのであれば徹底した映像科学を取り入れなくてはならないことは当然であるが、それだけではダメである。判定基準を統一し、反則とそれに対しての罰則が等価価値になっていなくてはならない。甘い罰則は問題だが、それ以上に厳しい罰則はもんだいである。厳しい刑罰同様に、将来性はない。
 なお、あの服の引っ張り合いをどのように無くすか。解決は一つ、古代オリンピックのように、選手は素っ裸で競技せざるを得ない。しかも、肌に油を塗って。髪の毛はつかまれないように坊主ないしは短髪にして。(2241)
posted by 矢島正見 at 15:09| 我流雑筆

ワールドカップC 日本対ポーランド戦

 川島はやはり替えるべきだった。ほんの数センチでボールはゴールに入っていた。入っていても全くおかしくなかった。入らなかったことをラッキーと思わなければいけない。
 本来ならば、ゴールの50センチ以上手前でキャッチできていなくてはいけない。
 川島の反射神経には衰えが出ている。気力は伝わるが、動きの鋭さは伝わらない。それを見定めるのは川島ではなく、監督である。(2240)
posted by 矢島正見 at 00:23| 我流雑筆

2018年07月07日

ワールドカップB ドイツ対韓国戦

 まったくドイツらしくない試合であった。
 がんばってはいるのだが、そして動いてはいるのだが、鋭さが感じられない。洗練された完璧なチームという印象がない。この試合に関してはドイツは二流のチームだった。しかも、最後はさらに焦りが加わり、自滅した。残念である。
 韓国が勝ったというよりも、ドイツが自滅したのである。(2239)
posted by 矢島正見 at 23:20| 我流雑筆

ワールドカップA コロンビア戦

 日本は2対1で勝ったものの、コロンビアの得点は完全に審判のミスジャッジである。
ゴールはビデオ判定となったが、その前のプレーの長谷部にはまったく問題がなかった。ビデオを見れば一目瞭然。クレームがついた場合のみビデオ判定するのではなく、PKや得点に絡む重要な場面やイエローカード・レッドカードを与える場合には、全てビデオ判定をすべきである。人間の判断よりもよほどビデオの方が優れていると心得るべきである。
そのうち、審判はどのスポーツでも機械が行い、人間による判定は不要になるであろうが、1点の重みのあるサッカーではなおさら重要である。バスケットボールやラグビーとは、この点で決定的に異なる。
 人間の判定の限界性を認めなければ正しいスポーツの発展はないと思ったほうがよい。今人気だからと、FIFAは傲慢に陥ってるのではないかと思わざるを得ない。そうであるならば、選手とサポーターは悲劇である。
 また、副審の存在意義がよくわからない。何のためにいるのか、その存在性を発揮すべきである。具体的には、主審の判断に異議申し立てをすべきであり、ビデオ判定を申し述べるべきである。
 広大なフィールドを一人で判定することなど到底不可能である。相撲にはあんな狭い場所での判定に5人の判定者がいる。これをサッカーに当てはめれば500人ほどの判定者が必要となる。非現実的ではあるが、そうした配慮をFIFAがしていないところが最も問題である。
 今回からやや科学的装いを見せてはいるが、そしてそれなりに効果を発揮しているが、それでも未だに判定が原始的なスポーツである。(2238)
posted by 矢島正見 at 01:44| 我流雑筆

2018年07月06日

W杯視聴率 アイスランドで99.6%

ワールドカップ@ 99.6%
W杯視聴率 アイスランドで99.6%、アルゼンチン戦(6/19(火) 15:53配信)
 「ワールドカップ、アイスランド対アルゼンチンの試合の視聴率がアイスランド国内で99.6%だったことが分かりました。」
 「アイスランドのサッカー協会によりますと、16日に行われたワールドカップの試合、アイスランド対アルゼンチンのテレビ視聴率が、アイスランド国内で99.6%だったことが分かりました。」
 「ワールドカップ初出場のアイスランドは、優勝候補のアルゼンチンを相手に1対1の引き分けに持ち込み、大健闘しました。アイスランドの人口はおよそ33万人で、ワールドカップ出場国の中で最も人口が少ない国です。ただ、人口の0.4%がいったい何を視聴していたのかという疑問も、わき起こっています。(19日12:05)」

 すごい視聴率である。日本では絶対にありえない。すごいことである。日本のサッカー熱など大したことない。(2237)
posted by 矢島正見 at 00:56| 我流雑筆

2018年07月01日

梅雨明け

 6月29日、関東は梅雨明けとなった。実に早い梅雨明けである。そして、暑い夏がやって来た。(2236)
posted by 矢島正見 at 14:47| 我流雑筆