2018年02月02日

織田作之助『世相』『アドバルーン』

 『世相』では、戦前から戦中、戦後にかけての大阪が、作家の「私」によって語られている。『アドバルーン』は、少年の頃からの「私」の人生行路である。
 ともに「私」という第一人称による小説だが、しかし「私小説」ではない。織田の小説は「私」が主人公の場合もあれば、三人称によって物語が展開されていくという小説もある。しかし、どちらにしても似ている。
 それは、織田の小説が“語り”によって展開するという構成でできているからだ。「私小説」ではなく〈語り小説〉なのだ。その語りが独特であること、やけに具体的であることが、織田小説の二大特徴のように思われる。これは『俗臭』も『放浪』も同じである。
 具体性がこれらの小説ではいかんなく発揮されている。舞台は大阪、たまに京都・神戸もあるが、ほとんどは大阪であり、しかもミナミである。
 場所が実に明確であり、読んでいると大阪ミナミの街の地図が頭に描ける。まるで古今亭志ん生の落語「小金餅」を聞いているようだ。
 職業も様々に出てくる。仕事の様子まで見事に書かれている。ただし、その職業の大半は個人営業の商売、自営業である。いわゆる「大阪の商い」である。
 金銭も家計簿のように事細かく書き込まれている。例えば、30円もって家出をして、〇〇街の〇〇店で〇〇を買って10銭、△△街の△△店で△△女にたかられ20円取られ、等々である。この金銭の記述によって、今では当時の地理だけでなく時代がわかる。
 こうした描写が、織田小説に不思議なほどのリアリティを与えている。喜怒哀楽の感情をいくら大げさに描いても、空間と時間の描写がない物語は、十代の若者なら喜ぶだろうが、40歳を過ぎたら、だだちんけなだけである。「勝手にわめいていろ」と思うだけだ。
 また、イデオロギーが織田の小説にはない。右もなく左もなく、正義もない。戦前・戦中の国家主義の時代にあって、これは大したものであるし、また、戦後でも民主主義も人権思想もない。そうした点ではまったく時代を超越している。
 ただし、限界は当然ある。大阪しか書けないということ。そして、デカダンス的な人生行路しか書けない、もしくは書かなかったということ(ただし、すべての作品を読んでいるわけではない。読んだ範囲での見解である。以下、同じ)。この二つである。
 織田の描く人間は大阪人である。江戸っ子も東北人も、おそらく織田は書けなかったことであろう。また、農民が書かれていない・おそらく書けない。田畑で生きる人・海で生きる人・山奥で生きる人、貧困の中で生きる農林水産業の貧困層は書けない。
 会社人間・公務員人間として生涯生きた人も書けない。可もなく不可もなく、真面目にコツコツと生きて、毎日同じことの繰り返しで年老いていき、ごくまともに死んでいくという人生は書いていないし、おそらく書けなかったであろう。(2172)
posted by 矢島正見 at 21:46| 我流雑筆