2018年02月28日

オリンピックの国家主義H

 オリンピックは縮小すべきである。
 まずは、あのショーと化した開会式と閉会式を素朴にすべきである。芸術の祭典ではない。派手な演出は不要である。選手入場と聖火があればそれでよい。今までの開催式と閉会式を見慣れたテレビ視聴者をがっかりさせるような、夏の全国高校野球大会の開会式程度の素朴さで十分である。
 次に競技種目を大幅に減らすべきである。肉体の祭典にもどすべきである。大会開催の都市の顔が見えるように運営すべきである。全世界から観に来た人たちをテレビで観る人たちよりも優先すべきである。
 そしてなにより、出場する選手中心に行うべきである。スポーツ選手の祭典であって、国家の祭典ではないし、スポーツ組織団体の祭典でもないし、テレビ放映の祭典でもない。(2188)
posted by 矢島正見 at 13:55| 我流雑筆

2018年02月26日

オリンピックの国家主義G

 今回の韓国の平昌冬季オリンピックもこの延長であり、しかも「民族統一」という政治が入り込み、まさに政治とスポーツが一体化した祭典と化している。
 江原道平昌郡での開催なのだから、本来ならば、平昌群の群長(市長)か、江原道の道長(知事)が主役のはずなのだが、まったく存在が無視されている。テレビに映るのは韓国の大統領である。「私が主催している」といった感じだ。
 おまけに、完全にテレビオリンピックと化している。寒風の中での開催は競技をする選手軽視の大会である。極寒の地での開催にもかかわらず、さらに寒い夜に競技を行うのはテレビ局の都合である。選手の都合でも観客の都合でもない。放映権という金の力である。
 テレビを見ると、夜のスキー競技では、客席にはまったくと言ってよいほど観客がいない。会場に観客のいないオリンピックである。屋内のスポーツでも空席が目立つ。一体、誰のためのオリンピックなのか。(2187)
posted by 矢島正見 at 00:05| 我流雑筆

2018年02月24日

オリンピックの国家主義F

 第31回夏季オリンピックは2016年にブラジルのリオデジャネイロにて開催された。参加国・地域は205、参加選手は10,500人、競技数・種目は28競技・306種目であった。
 参加国・地域と参加選手の拡大化は喜ばしいことであるが、競技数・種目の拡大化は腑に落ちない。
 これがスポーツか、と言わざるを得ないものが続々と登場している。どう考えても、「肉体の祭典」ではない。人間の身体能力を極限まで追求したものではない。技術を競うだけではスポーツではない。それは、たんなる競技であり、むしろ「遊び」といったほうがよいものだ。
 ゲートボール・ボーリング・ビリヤード・バレー・各種ダンス・チアリーディング・等々、いずれもオリンピック種目になり得る。それどころか、私が子どもの頃に遊んだビー玉やパチンコ、ベーゴマ、縄跳びも、オリンピック種目になり得る。
 それでは何故、ある種目がオリンピックの種目になったのか。ひと言でいえば、そのスポーツの競技団体の政治的活動・政治力である。
 競技者だけでは絶対にオリンピック種目にはなれない。そこでは、役員や職員をそろえ、組織運営をし、組織を拡大化させていき、全国的なさらには国際的な組織に発展させ、マスコミで競技を放映させ、タレント性のある選手を生み出し、感動的なドラマ仕立てを構成し、強力な政治力を持つようにして、国とIOCに圧力をかけ、それに成功した種目がオリンピックに採用されるという、これまた政治とスポーツの癒着である。(2186)
posted by 矢島正見 at 10:20| 我流雑筆

2018年02月23日

オリンピックの国家主義E

 いつしか、「オリンピック」が「オリンピック・パラリンピック」と呼ばれるようになった。調べてみたら、「60年にはローマ五輪に合わせて初めて英国外のローマで開催(それ以前はオリンピックとは分離しており、英国での開催)」、「64年東京大会では初めて「パラリンピック」という言葉が登場した」とあった。東京大会で「パラリンピック」と初めて呼ばれたのだ。記憶にない。
 そのパラリンピックもオリンピックと同じ途を歩んでいる。国家的国際的組織化への途であり、拡大化の途であり、競技団体政治性への途である。違うところと言えば、障害者・弱者という正義イデオロギーを持ち合わせているということくらいであろう。(2185)
posted by 矢島正見 at 12:23| 我流雑筆

2018年02月22日

オリンピックの国家主義D

 第18回オリンピックが1964年に開催された。東京オリンピックである。いや「オリンピック東京大会」である。東京という都市で開催される大会である。
 実施競技種目数は20競技・163種目。参加国・参加選手数は93の国と地域・5,152人であった。
 十年近い歳月をかけての国家総動員体制での巨大祭典であった。オリンピックという名の日本国土開発総合政策であった。政治とスポーツの分離という理念は、国家間の政治とスポーツの分離ではあったが、開催国の政治とスポーツの分離ではなかったのである。政治とスポーツとの巨大な癒着である。具体的に言えば、政府と東京都と各種競技団体組織とマスコミと企業の共催の饗宴であった。
 まさに、都市・国家・マスコミ・企業が中心となっての国民総動員の「おおハシャギ」がおこなわれた。結果、国民も大はしゃぎであった。10月23日夜、女子バレーボール決勝戦のTV視聴率は85%にも達したと言われている。(2184)
posted by 矢島正見 at 23:07| 我流雑筆

2018年02月19日

オリンピックの国家主義C

 1924年に第1回冬季オリンピックがフランスのシャモニー・モンブランにて開催された。これで、オリンピックは夏冬で2年ごとの開催と化していく。
 16ヶ国、258人の選手、4競技14種目と、やはり最初は実にこじんまりとしている。しかし、夏季オリンピック同様、冬季オリンピックも拡大化の一途をたどる。
 以降、国家の大事業と化していき、さらにその後、マスコミ(特にテレビ)がオリンピックの主要な顔になっていく。そこから、企業がオリンピックのスポンサーとなる。都市・国家・マスコミ(テレビ)・企業という四つの巨大勢力の饗宴と化していくのである。(2183)
posted by 矢島正見 at 11:26| 我流雑筆

2018年02月18日

オリンピックの国家主義B

 ロンドンで開催された第4回大会から、オリンピックへの参加が各国のオリンピック委員会を通して行われるようになった。個人やチーム参加から国家管理・支配のもとでの選手参加である。参加者は国の代表選手となったわけだ。
 「オリンピックが各国内のオリンピック委員会ごとの参加となったことで「国とは何か」を改めて問うことになり、第5回大会開催に当たっては、さまざまな問題がありました。」とWEBで書かれているが、当然出てくる問題である。オリンピックの国家主義が顕在化したわけだ。「都市開催」を理想としつつ、現実は「国家開催」なのだから。
 そこで、「国家」を「政治」にすり替えて、「都市」を「スポーツ」にすり替えて、「政治」と「スポーツ」の分離とした。小賢しいまやかしである。
 以来、「都市と国家の分離」はまったくなくなり、「政治とスポーツの分離」が理念と化していく。
 大会には28の国と地域から2,490人の選手が参加。15競技108種目が行われた。なお、この第5回ストックホルムオリンピックから日本は参加した。さらなる国・種目・参加選手の拡大である。(2182)
posted by 矢島正見 at 15:17| 我流雑筆

オリンピックの国家主義A

 それが徐々にひどくなっていった。
 第2回目はパリオリンピック。オリンピックが万国博覧会の付属大会として開かれることになった。
 万国博覧会は国家主催、オリンピックは都市主催、格が違うということであろうし、開催経費の支出はともに国が中心で行ったのであれば、当然であろう。
 16競技95種目が行われ、24の国と地域から997人(うち女子22人)の選手が参加したとのこと。第1回から比べると、随分と種目が増え、人が増えている。
 第2回から既に拡大路線が始まっていたわけだ。(2181)
posted by 矢島正見 at 15:15| 我流雑筆

2018年02月16日

オリンピックの国家主義@

 オリンピックはいつから国家主催となったのだろうか。少なくともタテマエとしては、都市が主催のはずだ。それが、既に当初から国家主義の要素が入っていたようだ。
 第1回がアテネオリンピック。「アテネ」という都市名での開催である。以後、開催には都市名が付けられる。
 ネット検索では、実に小規模の開催であったが、それでもアテネという都市だけの財政で開催されたのだろうか疑問である。財政規模の小さい都市(日本ならば、都道府県)で開催経費が第1回から賄えなかったのであるならば、既に第1回から都市名開催、費用国家支援ということになる。
 「当時は国家単位ではなく個人名義による自由出場だった」と書かれている。その点では、国家の口出しは薄かったと言える。しかし、既にメダル獲得は国家単位の表で出ているし、14ヵ国・241人の選手が出場したというが、その費用はおそらく出場選手の国家が支出したのであろう。
 となれば、やはり、第1回から既に、国家無くしてオリンピックは成立しなかったということだ。その初めから実質的には国家オリンピックだったわけだ。(2180)
posted by 矢島正見 at 11:35| 我流雑筆

2018年02月12日

坂口安吾『魔の退屈』『私は海をだきしめていたい』

 坂口安吾の作品は『堕落論』『白痴』『不連続殺人事件』を読んだ記憶がある。
 太宰治、織田作之助と並んで、戦後に新文学の旗手とかデカダンス作家とか呼ばれた作家であり、また三人とも若くして死んでいる。
 坂口安吾の作品は織田作之助の作品とは全く異なる。
 一方は大阪が舞台であり、今一方は東京中心に書かれている。一方は極めて具体的に書かれており、今一方は極めて抽象的であり、告白調であり、思想的であり、理屈っぽい。この『魔の退屈』『私は海をだきしめていたい』はその典型である。
 『私は海をだきしめていたい』では、どこに住んでいるのか、何をして生活しているのか、仕事は何か、収入は月にどれ程あるのか、一日をどう過ごしているのか、何を食べているのか、食事は誰が作るのか、等々、まったくわからない。
 だだ、元娼婦の女との肉欲感情がデカダンス的に書かれているのである。どうせならばセックス場面を事細かに書いてくれていればよいのだが、それもない。
 『魔の退屈』では、「荒正人」「平野謙」と実在の人物が登場し、これでもかというほどに描かれている。これには驚いた。織田の作品にも作家という「私」は出てくるが、同僚の作家・評論家等は出て来ない。これも大きな違いであろう。坂口安吾はデカダンス作家ではあったが、東京の文壇の中で生きていたのであろう。
 なお、織田の小説よりも改行が多く、会話の部分も多く、読みやすい。感情中心の理屈小説のところも、現代的であり、むしろ読みやすい。(2179)
posted by 矢島正見 at 11:06| 我流雑筆

2018年02月11日

国民に「戦争への備え」呼びかけ

スウェーデン、国民に「戦争への備え」呼びかけ(1/18(木) 10:55配信 CNN)

 「ロシアの脅威の高まりを受けて軍備を増強しているスウェーデンが、戦争に巻き込まれる事態を想定した備えを呼びかけるパンフレットを、この春にも470万世帯に配布する。」
 「パンフレットは市民に対し、「平和時における危機や惨事だけでなく、社会とスウェーデンに対する別の種類の攻撃」にも備えるよう促す内容。「世界がひっくり返った」事態を想定し、自宅に十分な量の食料や水や毛布などを用意しておくよう国民に助言するとともに、自治体に対してはかつての冷戦時代の防空壕(ごう)を準備するよう求めている。」
 「有事対応当局者は17日、CNNの取材に対し、パンフレット作成の背景として、バルト地域の治安情勢を挙げた。」
 「スウェーデンは全土で軍備強化を図り、徴兵制を復活させるとともに、バルト海に面した戦略的な要衝となるゴットランド島に部隊を配備している。」
 「徴兵制は2010年に廃止されたが、17年3月になって、徴兵制を18年から復活させると発表した。」
 「15年2月には、国防予算を今後5年間で7億2000万ドル増額することを決定した。しかし国防軍の人員は不足している。」

 スウェーデンも、「過去の戦後」から「未来の戦前」に時代が移行しているようだ。第一次世界大戦での帝国主義国家ロシア、第二次世界大戦での共産主義国家ソビエトにつづく侵略される恐怖に襲われつつあるようだ。福祉大国スウェーデンの国家予算がどのようになるのか、大きな関心である。
 なお、スウェーデンすらこうなのだから、実際にソビエトに支配されてしまった歴史のあるバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)は、さらに恐怖であろう。

 気になったので、Wikipediaで「エストニア」を検索したところ、「2014年2月18日、ロシアのラブロフ外相とエストニアのパエト外相は、旧ソ連時代の国境線に従って両国国境を画定する条約に調印した。領土について一切譲歩しないという姿勢のロシアと、早期の国境画定を促すEUやNATOに押され、エストニアはペツェリ地区への主張を放棄することになった」とある。
 1991年にようやく独立したものの、ロシアのしつこさに、領土の一部を放棄せざるを得なかったというわけだ。ちなみに、軍隊はあり、「徴兵制度により18から28歳の男性は8から11ヶ月の兵役をつとめる」と書かれている。
 なお、三国の中では、西欧諸国に一番近いリトアニアが最も政治的にも経済的にも安定しているようだ。(2178)
posted by 矢島正見 at 14:08| 我流雑筆

2018年02月10日

『西郷どん』はフェイク山盛り

   時代考証家が自らツッコむ『西郷どん』はフェイク山盛り(1/28(日) 11:01配信)

 「1月7日、ついにNHK大河ドラマ『西郷どん』が始まった。林真理子氏の小説が原作、『花子とアン』などで知られる中園ミホ氏が脚本。」
 「明治維新の英雄・西郷隆盛を鈴木亮平(34)が演じるが、「史実との違いを探せばきりがありません」と語るのは、鹿児島・志學館大学の原口泉教授(70)だ。」
 「『翔ぶが如く』(1990年)、『篤姫』(2008年)などの大河に携わり、『西郷どん』でも時代考証を担当。その原口教授自ら、史実との違いをツッコんでくれた。」

【フェイク1】西郷隆盛と主君の出会い
「第1回の放送で藩主・島津斉彬(渡辺謙)がお忍びで薩摩へ帰り、幼少期の西郷隆盛と出会います。しかし、当時斉彬が住む江戸から幕府の許可を得ずに帰るのは、不可能に近い。」
 「史実ではないので、『天狗』に化けて子供の西郷に会う、というような演出になっています。誤解がないように、番組の最後で、『このとき斉彬が薩摩に来た記録はありません』とナレーションを入れてもらっています」
【フェイク2】西郷は下戸
 「主君・斉彬と西郷が飲み明かすシーンもあるが、「西郷は下戸です」。」
【フェイク3】西郷家と大久保家の場所
 「大河では、西郷家と盟友・大久保利通(瑛太)の家が隣同士という設定だ。
「実際には、150メートルほど離れていました」
【フェイク4】「妙円寺詣り」は夜
 「島津義弘の武勇を偲ぶ地元行事、「妙円寺詣り」も描かれている。
「これは本来であれば、夜間におこなわれる行事です。キャストの小学生が夜のロケに出られないので、昼間に撮り終えたと聞いています」
【フェイク5】糸子は幼馴染みではない
 「西郷は3人の妻を娶っている。3番めの妻が糸子(黒木華)だ。
「2人が幼馴染みという設定も史実に反します。脚本の中園ミホさんが『2人は子供のときに会わせたい』との希望でしたので、『まあ、いいでしょう』と」
【フェイク6】月照と西郷の関係
 「林真理子氏の原作で、話題を呼んだのは僧・月照と西郷の関係だ。主君の斉彬を亡くし、絶望のあまり切腹を図る西郷を、月照が夜具に誘って慰める。尾上菊之助が演じる月照とのシーンは、どう描かれるのか……。
「2人の関係を、林さんは『ボーイズラブ』とおっしゃっていますが、私は月照と西郷は『一心同体』だったと思います。斉彬の君命を受けた西郷と、孝明天皇の勅命を受けた月照は、まさに志をひとつにしていた。男と男、男と女の愛など超えていたのです」
【フェイク7】糸子の奄美大島訪問
 「物語の中盤で、妻・糸子が奄美大島に渡り、西郷の2番めの妻・愛加那(二階堂ふみ)とその息子・菊次郎と会う場面がある。」
 「時代考証の立場からは史実と違うと言いました。ですが、林さんはドラマ上、糸子と愛加那に、女同士で話をさせたかったと。これは歴史小説やドキュメンタリーではなく、新しいジャンルの物語だと思っています。あくまで西郷という人間を描いているのです」

 「物語のプロット作りから参加した原口教授は、『西郷どん』で新しい西郷像を描こうと試みた。明治維新後、征韓論で敗れ、大久保と対立した西郷は下野して鹿児島に帰る。世にいう明治六年の政変だ。」
「私の見方は違います。西郷は大久保と対立したわけではありません。大久保は、内務卿として殖産興業政策を進め、かたや西郷は鹿児島で『農による国興し』を目指した。西郷にとっては、この上なく幸せな時だったはずです。」
 「『西郷どん』の裏番組は、高視聴率を誇る『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)だ。」
 「ぜひ、そういう番組を観ている若い人に観てもらって、新しい国づくりに役立ててほしいですね」
 「新たな西郷像が楽しみだ。」
(週刊FLASH 2018年1月16・23日合併号)最終更新:1/28(日) 11:01 SmartFLASH

 思ったとおりである。どおりでおかしいところが多いなと思ったし、そのおかしいところがまた面白くない。本屋でパラパラと立ち読みして、原作も面白くなさそうだったが、それ以上につまらなくしているのはどうやら脚本家にあるようだ。原作が女、脚本家が女では、女好みの物語になるであろう。中年以上の男が面白いわけない。
 時代考証次元でのでたらめがこれほどあるのだから、考証にはひっかからない心情的・人間関係的場面では、どれほど時代性を無視して現代人好みと化していることだろうか。
 『真田丸』が面白くて、『井伊直虎』がつまらなかったのは、主人公が女だったからではなく、脚本がつまらなかったからだ。「新たな西郷像」などまったく期待できない。
 「新しいジャンルの物語」とは言うが、〈ベルバラ版大河ドラマ〉ではどうしようもない。若い男女を集客したいのであれば、「精霊の守り人」の続版を作ることだ。
 「私の見方は違います。西郷は大久保と対立したわけではありません。大久保は、内務卿として殖産興業政策を進め、かたや西郷は鹿児島で『農による国興し』を目指した。」という時代考証担当の原口教授の観方のほうがまだ面白い。重商主義対重農主義の対決が描ける。日本国に対する諸外国資本支配への危機、輸出用作物の農業化による農民の貧困化問題、日本の帝国主義化路線問題、等々、面白く描けると思うのだが。
 私が原作者で脚本家であったならば、徹底的にその時代そのものを描く。マクロ次元の経済・政治・生活を中心に描く。歴史考証は当然のこと、喜怒哀楽の意識、人間関係、状況認識に至るまで、徹底して、その時代そのものを淡々と演出する。(2177)
posted by 矢島正見 at 13:44| 我流雑筆

2018年02月09日

寒い

 2月になっても寒い。今年は例年になく寒い。暖冬では決してない。朝はいつまでも布団の中にいたい。猫のように丸くなって、こたつの中にいたい。(2176)
posted by 矢島正見 at 00:54| 我流雑筆

2018年02月04日

織田作之助『競馬』

 読みやすいと言ったら、これも読みやすい。短編だし、物語性が強いからだ。しかし、強すぎて、織田のいいところがなくなっている。そもそも男の嫉妬をテーマにするということが、どうも私にはいただけない。(2175)
posted by 矢島正見 at 11:56| 我流雑筆

織田作之助『木の都』

 織田にしては情緒あふれる作品だ。他とやや異なる。「思い出の記」という風味がある。落ち着いた作品である。(2174)
posted by 矢島正見 at 11:55| 我流雑筆