2016年07月15日

金子常規『兵器と戦術の日本史』「第一章」H

 既にこのことは、かなり以前に述べたことなのだが、『魏志倭人伝』の邪馬台国に至る道程の記述に書かれている「南下」とは、玄界灘から日本海を通り大国主命出雲連合国家に至る「北経路」との峻別であり、玄界灘から瀬戸内を通り大阪に至る「南経路」のことを述べているのである。
 当時、出雲への海路を「北海路」、大阪への海路を「南海路」と峻別されていたのではないかと推察する。となると、邪馬台国は卑弥呼時代のヤマト(奈良)となる。
 さて、繰り返しになるが、一方のアマテラスソウミノカミ⇒卑弥呼系列は、北九州⇒瀬戸内沿岸(四国北部・中国地方南部)⇒大阪⇒奈良へと勢力を拡大化していき、一時期は、岡山・兵庫・大阪・奈良に至る広大な地を占領するに至るが、既に記した通り、卑弥呼の死後、一時期劣勢となる。しかし、大国主命の死後、勢力を再度拡大化し、岡山・兵庫・大阪・奈良を奪還し、伊勢を併合し、さらに出雲連合国家を打ち破る。
 そして、出雲連合国家の後ろ盾となっていた新羅の軍を百済と組んで打ち破り、朝鮮半島の南半分を占領するに至るのである。
 新羅としては、出雲連合国家の滅亡により、かなりの勢力をそぎ落とされていたので、この時は敗北せざるを得なかった、という次第である。(1966)
posted by 矢島正見 at 09:20| 我流雑筆