2015年07月31日

「『日本海軍の興亡』からの近代日本戦争史雑考」その22

 日露戦争後に台頭してきた中堅の海軍将校がひどかった。勝戦の反省無き若き軍人たちである。秋山真之のように日露戦争は無謀な戦争と自覚した将校は軍を去っていったのではないか。そして能天気な馬鹿だけが純粋国家主義に走っていったのではないだろうか。
 一か八かの戦いに臨んでこそ戦機あり、なんて思う馬鹿である。サイコロでたまたま一ノ目が出たからといって、次はまず出ないのに。(1809)
posted by 矢島正見 at 10:19| 我流雑筆

2015年07月29日

「『日本海軍の興亡』からの近代日本戦争史観雑考」その21

 山本権兵衛は世界最大の海軍をめざした。その手本がアメリカだったのだ。アメリカの水準にまでたどり着くことが理想であった。
 しかし、現実には無理なことである。資源力・生産力が違う。そこで、七割水準を設定する。アメリカ海軍力の七割水準にまで追いつくという構想である。
 七割保持していれば、なんとかアメリカ海軍と戦える。アメリカ海軍と戦えるのであれば、いかなる国の海軍とも戦える。
 これが権兵衛の仮想敵国策であり、ロシア帝国を仮想敵国とするのとは全く異なっていた。
 しかし、それが徐々に独り歩きしていく。(1808)
posted by 矢島正見 at 01:01| 我流雑筆

2015年07月26日

迷惑メールの変容

 毎日100ほどの迷惑メールが届く。数年前まではバイアグラ等の販売も含めて、その90%がエッチメールだった。ところが3年ほど前から変化した。今では、60%以上が金儲けのメールである。
 こんなところでも時代の変容がうかがえる。(1807)
posted by 矢島正見 at 10:34| 我流雑筆

2015年07月25日

論文執筆

「日本における生活機能障害アプローチ社会病理学の系譜(仮)」。2年半かけて6月末にようやくメモ作成が終了した。まだ未入手の文献はあるが、とりあえずの見切り発車である。
 7月から論文を書き始めた。序章と第1章を書き終えた。これだけで、400字詰原稿用紙にして100枚ほどになってしまった。完成時は400枚を優に超えるのではないかと危ぐする。1冊の本並みである。(1806)
posted by 矢島正見 at 11:21| 我流雑筆

2015年07月24日

ケムシ

 柿木を剪定していて、イタッと思ったら、黄緑色の一センチほどのケムシが腕に取りついていた。払いのけたのだが、もはや遅し。赤く腫れあがってしまった。(1805)
posted by 矢島正見 at 11:27| 我流雑筆

2015年07月21日

「『日本海軍の興亡』からの近代日本戦争史雑考」そのS

 日露戦争後、山本権兵衛は、次の戦略に着手した。日露戦争後、仮想敵国を変化させたのである。仮想敵国はロシア帝国からアメリカへと変わった。
 海軍にとっては大躍進のチャンスである。戦場が日本海ではなく、太平洋に変わった。巨大な連合艦隊軍が必要とされた。
 何故アメリカか。アメリカが大陸国家から海洋国家へと変容したからである。メキシコ湾だけの海軍から大西洋海軍・太平洋海軍へと大転換を行ったからである。ハワイに進出、さらに太平洋諸島に進出し、フィリピンに進出した。
 しかし、山本権兵衛がアメリカを仮想敵国としたのは、そうした理由だけではない。(1804)
posted by 矢島正見 at 10:48| 我流雑筆

2015年07月19日

「『日本海軍の興亡』からの近代日本戦争史雑考」そのR

 日露戦争後、日本は朝鮮を本格的に属国とした。ここに至って、日本の帝国主義路線が明確に露呈した。またここに至って、日本は世界の悪役となった。
 朝鮮国独立を推進しようとする勢力、国論はなかったのであろうか。乃木や東郷は当然かもしれないが、山本権兵衛も伊藤博文も大局を見る政治家ではなかったということであろう。
 欧米列強の侵略におびえ、独立国家保持のために耐え忍んだことを忘れてしまったようである。のど元過ぎれば熱さ忘れるということであり、戦に勝つとそれ以前を忘れるということなのであろう。
 いや、それどころか、その後日本は満州をも手に入れようとし出す。当時の政治家にも軍人にも国民にも、清国に勝ったのだから朝鮮半島を獲るのは当然のこと、ロシアに勝ったのだから満州を獲るのは当然のこと、という思考が形成されていたわけである。(1803)
posted by 矢島正見 at 10:19| 我流雑筆

2015年07月17日

「『日本海軍の興亡』からの近代日本戦争史雑考」そのQ

 日本海海戦の本当の立役者、つまりその場での戦術の立役者は東郷大将ではない、という。
 対馬海峡説を最後まで唱え続けた藤井較一氏が最大の功労者である。彼なくして日本海海戦はありえなかった。当時の日本国民は英雄として祭り上げる人物を間違えた。それ故に、その後の時代を間違えた。
 国民はいつの世でも複雑を嫌う。事実で頭を使わず、感情で心を使うのを大衆は歓迎する。それ故に、東郷平八郎のみ英雄にさせた。ひどいのは、無能であった乃木大将までも英雄に祭り上げたことだ。
 逆に、敗戦でも単純化が行なわれ、ある特定の人物を悪人に祭り上げた。戦時中だけに悪人がいたのではない。着々と戦争の準備を遂行していった大正時代の悪人には目もくれずに。
 こうした単純性正邪のお祭り観念こそが歴史の危険観念であることを国民は理解していない。
 何人と言えども、神格化・英雄視させてはいけない。これが教訓である。時代劇で、源義経や織田信長や大石内蔵助を神格化するのとわけが違う。(1802)
posted by 矢島正見 at 12:39| 我流雑筆

2015年07月14日

「『日本海軍の興亡』からの近代日本戦争史雑考」そのP

 バルチック艦隊との日本海海戦は出来すぎである。
 作戦を立案した秋山真之ですら、疑心暗鬼となり、最終的には津軽海峡案になってしまっている。連合艦隊での作戦本部で最後の最後まで対馬海峡説を唱えたのはたった二人だという。
 あと二日、バルチック艦隊の来るのが遅かったら、日本海海戦はなかった。そして戦争は長期化し、日本が敗戦となったことは明白である。
 これが現実となったのが大東亜戦争(太平洋戦争)であった。日本は同じことを二度行ったまでのことである。ただし、柳の下のドジョウはそういるわけではない。
 国民は、太平洋戦争後は敗戦反省国民・戦争絶対反対国民と化したが、日露戦争後では勝戦無反省国民・戦争賛成国民と化していた。
 こうして、日本の歴史は、日露戦争の反省はまったくなく、太平洋戦争の反省はヒステリーなほどに過剰となった、という歴史をたどった。
 再度述べるが、太平洋戦争の敗戦の基をつくったのは日露戦争に勝った勝ったと湧きかえった日本国民である。
 朝鮮半島を属国化して湧き上がり、同様に、満州国を属国化して湧き上がり、満州に農地を求め(他国民の土地を無理やり奪い)、一獲千金を夢見た国民である。政治家も右翼も軍部もそうした世論を大いに利用した。(1801)
posted by 矢島正見 at 12:28| 我流雑筆

2015年07月11日

書込み1800回

 ちりも積もれば山となる。山も連なれば山脈となる。1800回の書き込みとは我ながら感心する。
 しかも書かれている内容は、これが同じ人物が書いたのかと疑わせるような多様な傾向性を持つ。歴史認識ありエログロあり飲酒報告あり。そして専門研究は無し。(1800)
posted by 矢島正見 at 11:11| 我流雑筆

2015年07月10日

6月の酒量報告(6月1日〜30日)

 酒量を日本酒に換算して、◎…3合以上、○…1合以上3合未満、△…1合未満、×…無飲酒。
 1日…○、2日…○、3日…○、4日…○、5日…○、6日…○、7日…◎、8日…○、9日…○、10日…○、11日…○、12日…◎、13日…○、14日…◎、15日…◎、16日…○、17日…○、18日…○、19日…○、20日…◎、21日…○、22日…◎、23日…×、24日…○、25日…○、26日…○、27日…○、28日…○、29日…○、30日…◎。
 以上、◎…7日、○…22日、△…0日、×…1日。
 ◎を3点、○を2点、△を1点、×を0点としての、ひと月の合計点は65点であった。(1799)
posted by 矢島正見 at 12:24| 我流雑筆

6月のご報告(6月1日〜30日)

○学内活動…大学授業(社会調査、社会問題、調査実習、社会学演習)、大学院授業(逸脱の社会学)。学部・院授業準備。研究室会議。教授会。大学院会。教育実習校への挨拶電話・メール。教育実習講義参観。ゼミ論査読・個別指導。人事論文査読。中央大学社会学・社会情報学会講演会。調査実習インタビュー受。
○学外活動…一般財団法人青少年問題研究会評議員会・理事会、全体会。『青少年問題』原稿読。『青少年問題』原稿読。日本社会病理学会理事会。相賀氏・佐々部氏と飲食。投稿論文再査読。
○読む…『レファレンス―日韓の50年』。『犯罪学雑誌』。
○書く…『組長の娘』「解題」。「日本における生活機能障害社会病理学の系譜」文献メモ作成。
○私的活動・出来事…孫と上野の科学博物館。お見舞い。竹抜粋。張夫妻飲食。タカオクリニック。(1798)
posted by 矢島正見 at 12:21| 我流雑筆

2015年07月07日

「『日本海軍の興亡』からの近代日本戦争史雑考」そのO

 戦国大名は勝てる戦しか仕掛けなかった。ところが、幕末以来、一か八かの戦を仕掛けるようになった。徳川幕府と薩長土肥の戦いにしても、幕府が予想以上に軟弱・弱腰であったからの勝利である。
 安政年間であったならば全国の譜代大名・諸藩を固めるだけの力量が幕府にはあった。そして、それができていれば20万の軍隊を揃えることが可能だった。旧式軍隊とはいえ、20万の大兵団であるならば、完勝した。
 それをしなかったのは、できなかったのは、頭だけ狡猾な、よく言えば平和主義、悪く言えば事なかれ主義に徹した幕府官僚群であった。また、幕閣の内部分裂であった。第一次長州征伐の中途半端がその好例である。征伐をする限り、長州藩お取り潰しまでするのが当然である。
 ところが、幕府との戦いで薩長土肥の首脳陣は、当然のごとく勝ったという自負をもった。その後の明治の歴史はそれを強調した。近代兵器を整備したから勝ったというイデオロギーは、軍の近代化路線の賛美であり宣伝であった。
 近代日本建設のその最初から、勝ち戦での反省がなかったのであり、それが日清戦争、日露戦争、大東亜戦争にまで、延々と引き継がれていくのである。
 そして、ひとたび負けると、今度は180度の変化で、反省ばかりの意識が構築されるのである。(1797)
posted by 矢島正見 at 15:53| 我流雑筆

2015年07月06日

「『日本海軍の興亡』からの近代日本戦争史雑考」そのN

 満州の大平原での戦いでは、日本は予想以上に頑張った。優勢に展開することができた。しかし、それもすでに限界に達していた。次のロシア軍の大反撃では、抗しきれなかったというのが、当時の大半の軍部首脳の見解である。(もちろん、現在の日本近代史研究者の定説でもある。)
 言い換えれば、そこまできわどい戦いを日本は仕掛けた、ということだ。まさに、その後の太平洋戦争そっくりである。太平洋戦争だけが無謀な戦争ではなかったのだ。日露戦争も無謀な戦争だったのだ。(1796)
posted by 矢島正見 at 13:23| 我流雑筆

2015年07月05日

「『日本海軍の興亡』からの近代日本戦争史雑考」そのM

 日露戦争は勝てる戦争ではなかった。ただ、一時、戦況を有利に進めることは可能だった。さすれば、国債は売れる。友好国であるアメリカや同盟国となったイギリスが買ってくれる。さすれば軍事費を捻出することができる。
 戦争は、経済力であり、財力であり、外交力である。政府高官はこれをよく知っている。知らないのは国民である。軍隊が戦争するものと思っている。(この点では、戦国時代の農民のほうが当時の日本国民よりもよほど戦争というものを理解していたと言える。)
 長引けば、必ず負ける戦争であった。(1795)
posted by 矢島正見 at 12:59| 我流雑筆