2002年04月27日

3つの顔を持つ男

 
偉大な社会学者は、やはりスケールがでかい。言い換えれば、いくつかの顔を持っている。

たとえば、3大社会学者。

デュルケムは社会学中興の祖、教育社会学の祖、そして宗教社会学者という顔を持っている。ウエーバーは、社会学者であり、経済学者である。ジンメルは、社会学、哲学、芸術学と、これまた幅広い。

ところが、一流の学者になると、研究領域が、きちんと限定されてくる。悪く言えば、こじんまりとしてくる。したがって、スケールの大きさはなくなるが、深さにおいては、偉大な(超一流の)社会学者に引けを取らない。

偉大でもないのに、研究領域を拡大すると、ろくなことはない。あっちをちょっとかじり、こっちを少しなめて・・・といった感じで、腰が定まらなくなる。

どうもその典型が私のようである。

私の第一の顔は、犯罪社会学者という顔だ。少年非行・青少年問題研究者という顔である。この顔が一番定着している。信望もある。

第二の顔は、性社会学者という顔だ。同性愛・トランスジェンダー研究者という顔である。

この顔は、ジェンダー論者やフェミニスト集団そして当事者達には、「胡散臭いやつ」と警戒されている顔である。とにかく、当事者側に立たないし、世の中を男支配社会なんて思わないのだから、とうてい「仲間」とは思われないであろう。(なお、この点に関して言えば、世の中は「美男・美女支配社会」である。このことに関しては、後に怨念をこめて、語ることもあるだろう。)

第三の顔は、ドヤ街研究者という顔である。フィールドは横浜寿地区。

10年前までは、この顔が第二の顔であったが、今は第三に退いている。そして今では、研究活動というよりも、精神ならびに身体障害者のボランティア活動を通して、結びついている、と言えよう。

この顔も、一頃は「胡散臭いやつ」と思われ、いろいろとトラブルに巻き込まれたものである。

さて、この3つの顔、共にバラバラで、ほとんど別物となっている。それゆえか、私の3つの顔全てを良く知っているという人は一人もいない。つまり私の研究を全体的に評価し得る人は一人もいないということである。

それどころか、1つの顔を知っているだけで、他の2つの顔をまったく知らないという研究者が大半である。それ故に、私に対しての評価は、ほとんど3つの顔のうちのどれか1つに対しての評価となる。そしてその評価が私の全てだと思いこんでいる。

これでは、「矢島は大したことないやつ」ということになってしまうであろう。社会学の講義で、「犯罪・非行」も「セクシュアリティ」も「ドヤ街」も講義できるなんて教員は私以外にいないと自負し、「1つぶで3つの味のいい男」なんて言っていても、それすら研究者間では知られていない、ということである。

なんか、これは「愚痴話し」なのか「自慢話し」なのかわからなくなってしまったが、どちらでもない。

同じ社会学とはいえ、3つの研究世界のあまりにも違う雰囲気の中を、それなりに器用に渡り歩いている研究者の、ある種あきれかえった「自己評価」と思っていただきたい。
posted by 矢島正見 at 00:00| 我流雑筆