2002年03月07日

闘病記(8)

 入院に当たって、原則として入院先を教えなかった。「見舞い無用」とさせていただいた。見舞いはこちらも気を使うし、相手も見舞いに「行った」「行かない」と、つまらぬ義理立てに気を使うからである。さらに、ゼミ生や卒業生が押しかけたとあっては、病院側も迷惑であろう。
文学部事務室、社会学共同研究室、財団法人青少年問題研究会、そして星野先生にのみ教えておいた。仕事の連絡がどうしてもあるからでである。後は妻経由とさせていただいた。
様々な方に迷惑をかけ、義理を欠いた。教授会書記では坂田先生、シンポジウムでは岩下先生・都筑先生、将来構想委員会の諸先生、松尾学部長、文事務の事務長や事務の方々、社会学コースの同僚ならびに室員さん、そして久保貴先生、等々である。
しかし、これからも当分ご迷惑をかけることであろうし、また義理を欠くことと思う。と言うよりも、多くの方々の暖かいご助言をありがたくいただき、これからは義理を欠く人生を歩もうと思っている。
もう既に、4月以降、社会学の同僚の暖かい配慮によって、大学の校務一切が免除された。さらに、担当コマ数も、かなり減少させていただいた。ありがたいことである。
また、非常勤も、大妻女子大学と駒沢大学を急遽辞退させていただいた。
ここ1年間は、学会活動も何もしないでいることとする。研究活動も最低限とする。よって論文も書かない。
通信は原則として電子メールだけとさせていただく。年賀状も今年は無しにする予定。
そんなことで、今までの活動量を100として、今年前半は50%、後半は60%、2年目と3年目は70%、4年目と5年目は80%とさせていただく。「腹八分目、仕事も八分目」である。
posted by 矢島正見 at 00:00| 我流雑筆

2002年03月06日

闘病記(7)

 入院をしたのなら、当然看護婦のことを書かなくてはならないだろう。
可愛い看護婦と、病室でウハウハ、なんてことを、それなりにスケベなヘテロ男なら、たいがい妄想するであろう。
ここの看護婦は、看護婦としてはたぶん平均以上であろう。技術的にも、そして患者に対しての対応にしてもである。「たぶん」と言ったのは、他の病院をあまり知らないからである。
で、顔とスタイルは・・・。これは、平均なのではないだろうか。
二十数年前に蓄膿症の手術で入院したときの看護婦は、技術的にも対応もひどかったが、ここより平均年齢は若かった。
さて、看護婦との関係と言えばやはり、手術前のあそこの毛を剃ることであろう。しかし残念ながら実に機械的。ただただ無機質的に剃っているだけであった。
これでは行けない。プロとしてもっと患者に対してサービスしなくては。看護婦はある種のサービス業である。今はやりの言葉で言えば「感情労働」である。
「男の方のこんなところを剃るなんて、あっ、ダメ、いやっ、でも、うれしい!」てな感じで、剃らなくては。
一人とびきりの看護婦さんがいた。20代後半かと思ったが、32歳とのこと。独身。とびきりの美人で、とびきり優しい。同室の浅見さんに言わせると、「当病院のスターであり、マドンナである」とのこと。私だけが「ピカイチ」と思っていたわけではない。
さてそこで、彼女と私との関係。残念ながら何もなかった。実に残念である。彼女も今頃「残念」と思っていることであろう。
posted by 矢島正見 at 00:00| 我流雑筆

2002年03月05日

闘病記(6)

 2月5日、組織検査の結果が出る。○病名:進行性直腸ガン○組織学的タイプ:@高分化から中分化の腺ガン、Aボルマン2型(局限潰瘍型)○程度:@広がり(大きさ)・・3.5p×3p、A深達度・・SS、B進行度・・ステージ3、デュークスC○転移:@臓器への転移認められず、A血液への転移認められず。Bリンパ節(郭清2個)への転移見られず、ただしガン細胞周辺のリンパ管への転移あり。○5年後の生存率:60%。
手術は成功したが、その後5年間が勝負である。実刑は免れたが、5年の執行猶予がついた、ということ。
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2002年03月04日

闘病記(5)

 1月22日、手術時間午後1時から3時。実時間は90分。
ガンのプロ、手術のプロ、そして麻酔のプロの3先生が行う。麻酔担当者は麻酔のみならず、心電図、血圧、脈拍、等、全てを管理する。手術にあってはかなり重要な役割を担っていることを初めて知った。
酸素マスクをかけられ、2度ほど呼吸したところで意識がなくなる。
腹を垂直に約18p切開。直腸とS状結腸の一部同じく約18p切除。出血100CC未満。
意識が戻ったのは、個室に運ばれた直後、脱糞をして。この脱糞により、術後腸に残っていた血と粘液の大半を排泄したことになり、その後の回復にかなり有効であったようだ。また、手術当日の夜中に屁が出たが、これも素晴らしいことであった。
24日、酸素吸入管外す。25日、胃管チューブ外す。26日、麻酔管抜ける。
ここまでは驚くほどに順調であったが、最後のフォーレ(尿管カテーテル)の取り外しは、随分と遅れた。これは回復が悪かったのではなく、場所が膀胱に近く、かなり手術でいじくったので、尿の排泄能力の回復に慎重を期したためである。
30日、尿排泄訓練始まる。1日で合格。@先ず、尿が出たいか・・合格。A我慢できるか・・合格。B出るか、どのくらい出るか・・合格。31日、ようやくフォーレが取り外された。
この時から、自由の身、やっと一人でトイレに行くことが出来るようになった。前期終了であり、中期への突入である。
1月30日、3分の1抜糸。腹管1本抜く。
2月1日、抜糸完了、腹管2本目抜く。替わりに細く短い腹管1本を入れる。2日、腹管抜く、これにて完了。
点滴・・・23、24、25日は500CC×4本、200CC×2本。26、27、28は500CC×3本、200CC×2本。29、30、31日は500CC×3本、200CC×1本。1〜6日は500CC×3本。7〜10日は500CC×2本。11日〜退院まで500CC×1本。
最初は、朝9時少し前から夕方5時近くまで点滴をし続けていた。また、点滴のおかげで右腕の血管は穴だらけ、ぼろぼろになった。
食事は18日から無し。術後は水を飲むのもダメ。水を少量飲めたのは29日になってから。その日からおもゆもスタート。小さじ3杯のみ。三分粥になったのは2月3日、ただし、ほんの少量。4日からはシャワー解禁。7日から五分粥。そして11日から全粥。
よって、10日をもって中期終了。11日より後期となる。
11日から1日おきに抗ガン剤(5−FU系統)を点滴にて投与。25日まで、計8回行われた。副作用を心配したが、ほとんど無かった。
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2002年03月03日

闘病記(4)

 2002年1月10日、進行性直腸ガンという最終結果が出た翌日、親友の田村雅幸が亡くなった。
科学警察研究所防犯部長、我が国の犯罪者プロファイリングの第一人者、犯罪心理学の第一人者、そして私の親友、最高の相棒。
ほぼ年が同じということで、若いときから気があっていた。一緒に研究をしたのは1990年、私が中央大学に移った年のこと。非行と友人関係の調査だった。その後、帝京大学の麦島先生をキャップとした総務庁青少年対策本部の青少年と社会環境調査に加わり、1993年から2002年まで計9回の調査を共に行った。
研究でも、飲んでもいいやつだった。気があった。最高の相棒であった。
その田村が大腸ガンと胃ガンとなり、手術をしたのが3年前のこと。一時期は心配したが、田村は半年もしないうちに元気となり、また酒を飲みかわすこととなった。
私もそうだが、田村も油断していた。仕事の量をもっと減らすべきだった。そしてつきあいをもっと減らすべきだった。
昨年、尾てい骨が痛いという。坐骨神経痛だという。今ならそれが再発の症状であることが分かる、そして再発がいかに恐ろしいものであるかが分かる。しかし、その頃の私にはそうした知識はなかった。
ガンが再発したという。手術したすぐ近くだという。それを聞いても、「何だ、取り残しか」としか思わなかった。「転移」というのは大変なことだと知ってはいたが、「取り残し」は軽く見ていた。当時の田村もそうだったのではないか。
しかし違っていた。田村は死んでしまった。
12月にお見舞いにいったときは、比較的元気だった。まさか、末期とは思わなかった。田村もそんなこと一言もいわなかった。持っていった4年ものの自家製梅干しをうまそうに食べていた。私も、まだ検査すらしていなかったので、何も言わなかった。
年末に一部の検査から、進行性の直腸ガンの可能性大、という結果が出た。そこで、田村への年賀状にそのことを書いた。
正月、田村から電話がかかってきた。病院からだった。「何だ、お前もかよ」「そうなんだよ」「似てるねー」「嫌なとこが似ちゃったねー」と言葉を交わした。それが最後であった。
1月11日、田村死亡の知らせを受ける。それまでは、まだ1年は大丈夫だろう、なんて思っていた。13日、出棺。奥様から、田村愛用の帽子をいただく。仮葬場まで同行する。
鈍感なせいか、あまり感情を表出するほうではないが、これには堪えた。
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2002年03月02日

闘病記(3)

 2001年12月のはじめから病院に行き、問診、血液検査、レントゲン、注腸検査、CT検査、そして内視鏡検査と受け、最終結果が出たのは、2002年1月9日。結果は、進行性直腸ガン。(もっとも、年末にはほぼ予測がついていた。)
セカンド・オピニオンを得るために、知人の紹介で千駄ヶ谷の林外科病院に出かけた。そこでは実にテキパキとしており、結局、警友病院ではなく、そこで手術をすることにした。
こうして、1月16日に入院、諸検査の後、22日に手術、となった。
ところで、注腸検査というのは、尻の穴からバリウムと空気を入れてのレントゲン撮影であるが、これがまた異様な苦しみ。屁と共にバリウムを辺り一面吹き飛ばしたい衝動に駆られつつ、我慢しながら、検査員の指示通りに、あっち向いたり、こっち向いたりする苦痛、一度味わっておくべきである。
内視鏡検査は、胃カメラと同様に、尻の穴から内視鏡の細い管を入れていく検査だ。これはマゾ的な心境になれる。こちらのほうも一度はお勧めする。また、自ら自分の大腸が見られるので、その点でもお勧めである。
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2002年03月01日

闘病記(2)

 1999年秋の中央大学での検診にて、血便を指摘され、再検査を進められ、病院への紹介状を書いていただいた。にもかかわらず、忙しさにかまけて、行かなかった。
と言うのも、2度の検便のうち、血便反応があったのは1つであったことと、暴飲暴食で胃腸がただれていれば血便ぐらい出る、と思っていたからである。
2000年の秋の検診は、1年間の休暇を取っていたので、受けなかった。もちろん、病院にも行かなかった。
2001年の秋の検診で、再度血便反応が出た。やはり、2つのうち1つに出ている。しかし、連続ともなるとやはり気になる。しかも、11月頃から、ときとして、便の周りに血が付くようになってきた。見ても分からないのだが、ペーパーで拭くと分かる。(ただし、ウォシュレットではダメ。)
「やばい」と思い、「近いうちに病院へ行って来よう」と思っていた矢先に、尿管結石になった。そこで、血尿と共に血便も検査してもらうことにした。
後悔先に立たずであるが、2年前に行っていれば、早期のガンであった。
posted by 矢島正見 at 00:00| 我流雑筆