2001年09月30日

社会学史

 合宿のことを書いたので、今回は「社会学史」の講義のことを書く。
社会学史は1年生の必修通年科目である。入学して、社会学の「社」の字も分からない学生にたいして、講義することになる。
第1回目はガイダンス。自己紹介をし、諸注意を述べる。その後の講義は、「第T部 プロローグ」【1】社会学とは
【2】社会学史とは
【3】社会学の起源
と続く。
「第U部 古典社会学編」では、【1】コント
【2】スペンサー
【3】マルクス、エンゲルス
【4】テンニェス
と、それぞれの学者の社会学について説明していく。
「第V部 三大社会学者編」では、【1】デュルケム
【2】ジンメル
【3】ウェーバー
と、やはりそれぞれの学者の社会学を説明する。現在はデュルケムが終わるところである。
「第W部 アメリカ社会学編」では、【1】クーリー
【2】ミード
【3】シカゴ学派都市・犯罪社会学
【4】パーソンズ
【5】マートン
を予定している。
毎年、最期まで終わらないのだが、今年は休みが少ないので、このぶんだと例年よりやや進んで、【3】くらいまではいけそうである。
このように書いてくると、ずいぶんお堅い講義のようだが、元来柔らかい私に堅い講義など出来るものではない。「楽しく、よく分かる講義」をもっとうに行っている。ただし、社会学史では、他の講義と違い、スケベはほとんど無い。
posted by 矢島正見 at 00:00| 我流雑筆

2001年09月13日

矢島ゼミ恒例地獄の合宿

 受験生の皆さんに、中大関係者の皆さんに、そして全世界の皆さんに、今日は矢島ゼミの合宿について書くことにする。いつもの通り、酔っている。なぜなら、酔わないと書かないからだ。
地獄の合宿ゼミをおこないだしてから、かれこれ5、6年になる。そのルーツは、私の恩師・那須宗一先生にある。合宿をし、集中ゼミを行う、というものである。
当時、中央大学文学部哲学科社会学専攻那須ゼミは60名ほどのゼミ生を要していた。正規の時間帯ではとうてい指導し得るものではない。そこで集中ゼミということになったのである。
恩師の伝統を受け継いで、それをさらに地獄化し、矢島ゼミの合宿となった。
4月にゼミ生が決まる。その際地獄の引導を渡しておく。地獄に行く覚悟のある者だけがゼミ生となる。
今年度を例にとると、ゼミ生は31名。3年生24名、4、5年生7名。男性15名、女性16名である。女性が多いことが我がゼミの特徴である。今年は学年に偏りができた。
全員が個人研究である。つまり、各自研究のテーマを決めて、自ら研究する、というものである。
5月、6月、7月と、研究テーマの報告が続く。3年生は夏前に、各自研究テーマを確定させる、それがゼミの方針である。確定しない限り、夏休みの間、独自に研究を進ませることが難しいからである。
7月17日、前期補講期間、12時から7時までかけて、個別指導に入る。これにて夏の課題を明確化させる。
こうしてゼミ生は各自夏の合宿に向けて、研究活動に入るわけである。
さて、今年度は、9月5日から10日まで、5泊6日の合宿が予定された。一人報告時間は合計で平均75分。30分から50分までが発表時間、その後質疑応答、そして私のコメント・まとめで、計75分ということだ。
第1日目(到着日)は、午後に2名、夕食後3名の報告。
第2日目は、午前に2名(9時から11時40分)、午後に3名(12時50分から17時00分)、夕食後3名(19時20分から23時10分)と、研究報告が続く。たいがいは時間オーバーする。
3日目、4日目と、これが続く。5日目は、午前中に2名の報告。これにて31名の報告となる。午後はレクリェーション、そして夕食後はコンパ。
翌日の午前中は帰る仕度・片付け、そして反省会。これにて終了である。
大学の授業はひとコマ90分で、出席を取ったり、伝達事項を述べたりすると、正味75分。年間ほぼ25コマ。夏の合宿で31コマやるのだから、1年分以上の消化である。
夜の11時30分頃ゼミが終わり、それから飲み会。夜中の2時、3時にお開き。
その後眠れればよいほう。報告の準備が不十分な学生は、ヒーヒーと準備し、他の学生はそれを手伝ったり、先輩は助言したりで、なかには朝を迎える者もいる。
8時から朝食。規律は厳しい。寝ている者はたたき起こす。
こうした合宿が続くのである。準備万端で臨み、かつ体調を整えていても、極めて厳しい合宿である。
しかし、この合宿を乗り越えないようでは、まともな論文は書けない。天国に行くための地獄である。
秋からは、ゼミ生は本格的な論文執筆に入る。2万字以上の論文が科せられている。
11月には、2日間かけての、個別論文指導がある。それまでにゼミ生は第一次原稿を完成していなくてはならない。
とまあ、こういうことである。
なお、今年の合宿は、これに台風が加わった。無事中大にかえって来られたのは、10日ではなく、11日の午前2時、別働隊の車2台の者たちは午前5時であった。
嵐の中を突き抜けての、強行突破であった。全員無事であったことが、なによりである。結果として、6泊7日であった。
このメンバーの写真を掲載した。ご覧頂きたい。
posted by 矢島正見 at 00:00| 我流雑筆