2020年09月20日

手塚治虫漫画総括

 最晩年の『陽だまりの樹』においても、まだまだ手塚漫画はマンガチックである。つまり、残念ながら、彼は死ぬまでマンガチックの漫画から抜け出すことができなかった。落語で言うならば、『寿限無』から『芝浜』の途中、一歩手前で亡くなってしまった。60歳では、まだまだ枯れていなかったのである。
 しかし、手塚の長編漫画の最高峰として、私の読んだかぎりでは、この『陽だまりの樹』を挙げる。最高の水準に達している。最晩年に最高の水準ということは、まだまだ期待できたということである。

 多くの漫画家は、50歳代にもなれば、全盛期を大きく外れ、つまらない駄作となる。しかし、手塚は違っていた。これから60歳代を大いに期待できた漫画家であった。
 たとえば、手塚治虫が生き続けていたならば、『どついたれ』とは全く異なった、自らの誕生から「トキワ荘」に至るまでの自分史・時代史漫画を描いたのではないだろうか。時代的にも、昭和3年から昭和28年頃までの四半世紀のことである。戦前・戦中・戦後という日本の歴史の大変動の時代である。
 そうした時代変容を絡ませての自分史である。自分と、自分の関係者と、架空に設定した人物と、歴史上の人物とを絡ませての長編漫画である。『陽だまりの樹』の続編である。

 手塚治虫ならば描けたと思うし、手塚でなければ描けなかったであろう。関西育ちの手塚ならば、織田作之助と通じる、それでいて全く異なった、時代漫画ができたのではないだろうか。
 還暦を過ぎた手塚であるならば、派手な正義も派手な演出も派手な描写もなく、ぐっと抑えての感動ストーリーを淡々と描いていったのではないだろうか。

 ようやく、手塚治虫も大人の漫画が描けるようになるわけである。ただし、その際には、週刊誌に連載せずに、書下ろしとして直接単行本として出版しなくてはいけない。それでなくては、手塚漫画の良さは発揮し得ない。
 その点では、貸本屋の赤本こそが日本の漫画の基礎を作り上げた。そして漫画月刊誌が成長させ、漫画週刊誌が衰退させた。

 歳を取らないと書けない漫画があるのである。青年による青少年のための漫画とは異なった新しい分野の新しい発想での漫画である。いつまでも青春を描いていたのでは、日本の漫画もアニメも終わりである。
 漫画はアニメを求めるのではなく、小説を超えることを求めなくてはいけない。漫画家は、画家であると同時に作家なのである。

 なお、手塚最後の漫画として『ネオ・ファウスト』があるということだが、それは読んでいない。また、『ブッダ』も読んでいない。

 これにて、手塚治虫漫画シリーズは終了である。何故終了かと言えば、我が家にある手塚漫画の全てを読み終えたからである。
 子どもの頃・若い頃読んだ手塚漫画はこれだけではない。しかし、今手元にあるのはこれだけである。したがって、これにてお開きにさせていただく。
400字詰原稿用紙にするとおよそ100枚となる。6月16日から8月4日までの間に読み、この「我流雑筆」に書いた。(2543)
posted by 矢島正見 at 00:45| 我流雑筆

2020年09月19日

『陽だまりの樹』

『陽だまりの樹』(全8巻)
(『ビッグコミック』(小学館)1981年4月25日号から1986年12月25日号まで掲載された。第29回(昭和58年度)小学館漫画賞青年一般部門受賞。)
 最後の手塚漫画雑考である。

 『どついたれ』が1979年6月から1980年11月までなので、その後に描かれたものである。自分史に基づいたテーマの断念から、家族史に基づいたテーマへと変更したのでは、とも考えられる作品である。
 『アドルフに告ぐ』が1983年1月6日から1985年5月30日までなので、手塚治虫は、最晩年には、この2作に全精力を傾けていたのかもしれない。(ただし、手塚の絶筆は『ネオ・ファウスト』であるとのこと。)

 両者ともに、きちんとした構成を前もって設定して描き始めたと思える。描き出してから物語を考えつつ書き続けたという感じではない。
 手塚最晩年のこの二つは、その点では、手塚漫画のエポックである。しかも、ある一定の歴史研究に基づいての仮説による時代考証と、緻密な物語・画面構成を駆使しての想像力と創造力豊かな力作である。
 しかも、今までの『鉄腕アトム』から『火の鳥』『三つ目がとおる』『どろろ』『ブラックジャック』に至るまでのSFものとは完全に決別した、時代小説的要素の強い作品となっている。

 時代は幕末。手塚治虫自身の曽祖父・良仙(府中藩松平播磨守の侍医)が二人の主人公の内の一人である。まさに、手塚治虫最後の作品にふさわしい家族史漫画である。
 物語の最後の語り。「その年、手塚良仙は九州の地で赤痢に罹り、大阪の病院に送られて死んだ。行年51歳であった。私、手塚治虫は彼の三代目の子孫にあたる。」という記述で終わらせたところは、実によい。

 物語は、医師・手塚良仙と幕府の下級武士・伊武谷万次郎を主人公にした幕末物語である。したがって、歴史上の人物も多数出てくる。時代漫画と歴史漫画のほぼ中間の作品である。
 手塚治虫の悪いところで、伊武谷万次郎は大げさに描き過ぎである。架空の人物ではあっても、今少し抑えるべきであった。彼が出てくる場面は、他の場面に比べると物語だけでなく、漫画の描き方まで大げさになっている。その点、手塚良仙のほうがよく描けている。
 この物語では、脇役が良い。男も女もそれぞれの役割をきちんとこなし、歴史の流れの中で、矛盾することなく生きていき・また死んでいく。初めから終わりまで、多くの登場人物にもかかわらず、物語は一貫している。矛盾した展開・不必要な展開は一つもない。

 ただ、一つだけ、「五」の「その前夜」で、いささかおかしなストーリーが出てくる。
 ウソの呼び出しで訪れた家で伊武谷が風呂に入り、底が抜けて、秘密の通路に落ちる。気を失い囚われるが、それがおかしい。トリックであったならば、わざわざ極秘の通路を知らせるようなことはない。
 それでは、風呂桶の底が痛んでいて、重みで底が落ち、たまたまその下が通路であったということか。ならば、風呂に入れた意味がおかしくなる。
 ただ、刀を奪うだけのことだったのか。幡隨院長兵衛の湯殿での殺し場面ならいざ知らず。ここは、大きなストーリーのミスである。「やりすぎ」の癖が出てしまった。

 さらに、いただけないストーリー展開が一か所ある。これはダメである。井伊内匠頭直弼大老が幕府の金を横領していたという筋は、実に駄作である。最大の敵である大物を小者にしてしまった。
 漫画執筆時の自民党政権の公金横領政治もどきを安易に漫画の中に取り込んでしまったのではないか。これはいただけない。手塚の時代迎合の悪いところが出てしまった。(2542)
posted by 矢島正見 at 12:36| 我流雑筆

2020年09月18日

『BRACK JACK』L

L最後にひと言
 気付いたのだが、私が今回読んだ『BRACK JACK』は、秋田文庫版(秋田書店、平成5年〜7年)である。したがって、『週刊少年チャンピオン』掲載順とは限らない。その点では、「第○巻」は無視していただきたい。ただ、それぞれのタイトルは同じはずである。 また、242話の全てが掲載されているわけではない。

 さて、いろいろとケチをつけてきたが、それでも全13巻を読み切った。その大きな理由は、連作短編集だったからである。頁数も20頁と少なかったところがよかった。それだけコンパクトに手塚は仕上げたということである。
 しかも、医学博士であるゆえに、かなりのテーマとストーリーを思いつくことが可能だった。手塚治虫漫画の良いとこ取りである。それ故に、242話まで続いたのである。他の漫画家では全く異なった物語を242話作ることは不可能だったはずである。たとえば、スポーツ漫画で、242話作った漫画家がいるだろうか。

 最初のほうの切れの良さと、どんでん返しの小気味良さは、薄らいでいったが、一部の物語を除いては、すべて一定の水準を満たしている。人気が出て、なかなか連載が止められなかったにしては、上出来である。
 鳥山明の『ドラゴンボール』のように、出版社地獄に陥り、素晴らしい漫画がお粗末になっていかなかっただけでもよかった。
 漫画家は、組織人間(企業人間)とは一定の距離を保ち、「あっしには関わりのないことでござんす」という精神が、心のどこかに必要である。

 組織を嫌い、クールな一匹狼であり、金の亡者、無免許医師というアウトサイダーということだが、時代は1970年代、そして少年雑誌への掲載、こうした条件のもとでは、ここまでが限界である。世界一の手術医師であり、ヒューマニストであったればこその人気漫画であった。

 もしも、成人漫画掲載で、ヒューマニズム一切無視の無免許医師で金の亡者ながら手術をしたら世界一の腕前という設定で、リアリティに徹するという姿勢で、2000年代に描かれたとしたら、どうなっていただろう。
 『ブラック・ジャック』ではなく『ダーク・ジョーカー』もしくは『ドクター・デビル』になっていただろう。
 そうであるならば、おそらく、BJは平和な世界では仕事はしなかったであろう。いや、物語の設定として、無理である。『ゴルゴ13』のような設定になっていただろう。

 ピノコは存在せず、自宅を持たず、ホテル住まいで定住化することなく、犯罪の世界・闇の世界・内戦の国・独裁政治体制の国で、暗躍せざるを得なかったはずである。偽のパスポートで、毎回偽名で登場し、独裁者やテロリストや極悪人の命を救っていただろう。
 ライバルは世界一の暗殺者、鍼灸師の琵琶丸なんてのもよいだろう。
 独裁者に逆らい残虐な手段で処刑されるところを防ぎ、牢獄で安楽死させる正義のドクター・キリコが登場してもよい。
 ブラック・ジャックに巨額の医療費を与えて命を救われた独裁者が、琵琶丸の針一本で簡単に死んでいく、というのもあってよいだろう。

 さほど高く評価はしていない故に、チンタラチンタラと読んでいて、それ故に、『ブラック・ジャック』だけ、他とは異なり、随分と長く書いてしまった。高く評価したからではない。これにてようやく閉じる。(2541)
posted by 矢島正見 at 00:08| 我流雑筆

2020年09月16日

『BRACK JACK』J K

J「振動」「閉ざされた三人」
 「振動」(第6巻)では、国鉄から治療費をふんだくろうとする。これは無理だ。
「閉ざされた三人」では、デパートから治療費をふんだくろうとする。これも無理だ。地下水の汲み上げが原因によるデパートの崩壊であるならば、デパートも被害者である。
 「崩壊を予知できたはずだ」という被害者の訴えは、地下水をくみ上げた地域全般に相当するものであり、そこの地域一帯に建造物崩壊の明確な前兆がなくてはならない。

 どうも、被害者正義がこの頃からB・Jに出始め、大組織・大企業から金をふんだくるという、どこにでもある低俗な正義ストーリーと化してきた。これはいただけない。
 漫画に正義が押し出されてきたら、末期症状と思ったほうが良い。さらに、特定のキャラクター(つまり、ピノコ)に漫画の人気が依存したら、これも末期症状である。
 これこそが長期連載のマンネリ化であり、手塚のストーリーテーラーとしての名声を低下させるものである。

K「不発弾」
 「不発弾」(第7巻)。これはダメである。
 BJの過去が描かれているのだが…。BJの過去は今まで2度ほど出てくる。それと、違っているとは言えないが、違和感がある。

 不発弾撤去後、そこは新興住宅地となり、クロオ家族が越してきたようだ。取り残しの不発弾が爆破したとき、クロオの父は海外に出張中。そしてそのまま海外で女をつくって帰って来なくなる。そして爆発。クロオが躰中焼け焦げ、危篤状態となり、母は手足が無くなり、死ぬ。

 クロオの父親はかなり地位が高いようである。クロオが子どもの頃と言えば1950年頃である。その当時、海外に行っているという設定である。昭和20年代後半の新興住宅地に家を建てる(もしくは、分譲住宅を買う)ということも、何となく不自然である。

 BJは、その事故を引き起こした者たち5人への復讐の鬼と化して、その後20年間を生き続ける、という物語の設定である。(法的に、5人の責任性は問えない。)
 5人への復讐劇という『ブラック・ジャック』の新たなテーマの登場である。
 どうもいただけない。次回の構想が浮かばず、他の漫画も描いていて多忙であり、出版社(担当社員)の悪知恵か、こうしたストーリーでごまかしたのではないかと、邪推したくなる。
 一人への復讐が終わり、あと4人残っている。4人の復讐もそのうち出てくるのだろうか。次に構想が浮かばなかったときに描くのだろうか。

 ところが「えらばれたマスク」(第10巻)にて、再びBJの過去が描かれる。去って行った父親の登場である。そして今度は母と自分を捨てた父親への復讐劇となる。その言い訳が、実に俗的である。
 さらにその後、続編がある。父が死んでの遺産相続のストーリーである。見苦しい。もうこれで終わりとしていただきたい。

 二人目の復讐劇が登場した。タイトルも「二人目がいた」(第12巻)である。まあ、今回は、前作よりもいくらかまともである。
 三人目からは知らないが「復讐の男・ブラックジャック」では、低俗である。
 「あっしには関わりのないことでござんす」という根本的なキャラクターが、自分のことになった途端カッカするというのでは、完全に崩れてしまった。低俗なブラックジャックになってしまった。
 復讐劇であるならば、『巌窟王(モンテ・クリスト伯)』や『五瓣の椿』のほうがよほど良い。また手塚治虫ならば『鉄の旋律』のほうがよほど良い。(2540)
posted by 矢島正見 at 00:36| 我流雑筆

2020年09月15日

『BRACK JACK』I

Iピノコ
 第1巻の第3話目の「奇形嚢腫」で「ピノコ」が登場する。嚢腫であった存在が一人の人間として登場することになる。

 ところが、このピノコ、いつまでたっても成長しない。大きくならないのである。幼児言葉はそのまま変わることもない。身長が伸びない。大きくならない。
 骨格は作られたものである。したがって、成長しない。筋肉は分からない。作られた筋肉であるならば、いつまでたっても筋肉も発達しない。
 しかしピノコは、かなり活動的になっている。筋肉が発達しているように思える。そうなると、いつまでたっても成長しない骨が邪魔になる。筋肉の発達を妨げることになる。

 脳と内臓は生きている。人工ではない。本物の人間の脳と内臓である。よって、成長する。
 そうなると、エビや蛇のように脱皮しないかぎり成長できない。人工の作り物は成長の妨げになってしまう。成長に見合った骨格・人工体に作り直さなくてはならない。

 そのようなことは医学を学ばなくても常識としてほぼすべての人が知っているはずである。そうなると、ピノコがいつまでも小さく、幼いのは、人工の骨格のためであり、脳や内臓の発達を妨げていて、そのため、ピノコは近いうちに死ぬと、そんな結論に達する。
 子どもは騙せても大人は騙せない。小学生は騙せても中学生は騙せない。

 ただし、「ピノコ生きている」(第9巻)は、ピノコを八頭身の18歳のボインの美人に改造するという物語である。最期には、そのようにはならなかったが、18歳の八頭身のボインの美人に改造することは可能だったのである。

 ピノコをそのままにしておくというのは、ストーリー上ではBJの好みとして設定されていると考えることが妥当である。
 しかしもちろん、その背後には、『ブラック・ジャック』の漫画ファンのための手塚治虫と出版社の方針がある。ピノコを成長させたら、女の子のファンが離れていくことであろう。(手塚には、アトムを成長させて不人気になったという痛い経験があるのだ。)

 大半の漫画では、子どもは成長させない。『サザエさん』や『ドラえもん』はその典型である。成長させると読者に嫌われるからだ。

 しかし、私としては、今までの5歳ほど(保育園年長程度)から、この際、小学2年生程度(7・8歳ほど)にしたほうが、ピノコの家事・助手としての役割という物語設定に適合的と思える。
 連載も始まってからもう3・4年経つのだから、今少し成長させたピノコにしたほうが良かった。さすれば、ピノコのある程度のシット心は、読んでいて醜くさも和らぐことであろう。(2539)
posted by 矢島正見 at 00:05| 我流雑筆

2020年09月14日

『BRACK JACK』G H

G琵琶丸
 『どろろ』の琵琶法師が、「座頭医師・琵琶丸」として出てきた。針一本であらゆる病気を治してしまう、という設定である。なかなかのライバル出現である。そのうちまた登場するのではないだろうか。
 この座頭医師は医師ではなく鍼灸師である。よって、医師の免許がなくても鍼灸の治療ができる。これはBJと違い、合法的である。
 かつて、針一本で人を殺すというテレビドラマ・必殺シリーズがあったので、琵琶丸には、こうした殺人もあり得ることである。針一本で生かすも殺すも自由自在、というところがいい。

Hドクター・キリコ
 今一人、面白い人物が第3巻の「ふたりの黒い医師」にて登場する。安楽死専門の医師ドクター・キリコである。これも面白いライバルである。
 ブラックジャックは、制度や組織に囚われず自由に医療活動をするというだけのことで、いかなる信念・イデオロギーで医療行為をしているのかはっきりしないが、このドクター・キリコは明確である。「死んでいく存在を無理に生き永らえさせてはならない」という根本的な医療倫理をもって「自然死」を遂行しているわけである。したがって、当時、医療現場にあって、医療の在り方を問う大きな問題となっていたわけである。
 今ならば、ドクター・キリコの医療は条件付きではあるが、合法的である。おそらく彼は医師の資格も持っていることであろう。もぐりではない。

 このようにみると、『ブラック・ジャック』は、時代に敏感、流行に敏感、社会問題に敏感というだけでなく、時代の先を見越していた、とも言える。末期がん患者に対しての「あと、ひと月の命」等の告知も、時代の先を行っていた。
 しかし、彼の正義は実に根拠の曖昧なものである。つまり、手塚の設定があいまいである。したがっと、一話一話、正義を提示してみなくてはいけない物語となっているのである。(2538)
posted by 矢島正見 at 01:16| 我流雑筆

2020年09月13日

『BRACK JACK』F

F「流れ作業」
 とうとう、ひとつ、ややいただけないストーリーに出会った。2巻目にある「流れ作業」である。
 手術の低料金を売りにする病院では、細かくスケジュールが設定され、手術の行程が細分化され、一日に数十人という大量の手術が、院長を中心としたスタッフの手によって、次から次へと流れ作業のように行なわれている。

 ある日、院長の子が車に惹かれる。このままでは死ぬ。院長はその日一日のすべての執刀をキャンセルし、その代行をブラック・ジャックに頼む。そして我が子の手術に没頭する。しかし、その努力も虚しく子どもは死ぬ。

 しかし、その子は自分の子ではなかった。本日手術する予定であった患者の一人の子と院長の子をブラック・ジャックがすり替えていたのだ。そして院長の子はブラック・ジャックが無事手術をすでに終わらせていたというストーリー展開である。

 素晴らしい物語のようではあるが、これはいただけない。
 一人の医師が一人の患者の手術の全てにかかわるという非効率性を否定して、院長は、流れ作業のように次から次へと手術する、それが医療費の低料金となる、という信念で病院経営と医療活動をしているのだ。
 ところが我が子の場合のみ特別で、院長は自分の子のみを一日かけて最初から最後まで手術したわけである。それを死なせては、流れ作業のほうが良いということになる。今まで通りのやり方のほうが良かったということになる。それではいけない。
 一人の患者を一人の医師が最初から最後まで診るというのが良いのだという正義のメッセージであるならば、無事に我が子の手術を成功させるという結末でないと、論理が矛盾する。

 成功させたうえで、ブラックジャックに、最後、「私という代行がもしいなかったら、本日この病院では、少なくとも十人の患者が死んでいたことだろう」と言わせたほうが良かった。大人的な結末であり、子どもには受けないが、これでなくてはいけない。(2537)
posted by 矢島正見 at 00:24| 我流雑筆

2020年09月12日

『BRACK JACK』E

E『木枯し紋次郎』
 『ブラック・ジャック』の人間性は、当時の日本の時代性を繁栄している。
 『木枯し紋次郎』は、フジテレビ系列で1972年1月1日より放映されたテレビドラマである。『ブラック・ジャック』よりも一年近く前のテレビドラマであり、人気を博した。「あっしには関わりのないことでござんす」というセリフが大流行した。
 それは、組織にかかわらない人間像であり、一匹狼的生き方である。そして、正義づらせず、一見冷たいが実は優しく、一見人の幸・不幸に無関心であるが、実はヒューマニズムが貫徹している、という人間像である。

 手塚治虫は、時代を読むのが得意であった。流行に敏感であった。ある事象が社会問題になると、それを題材にするのが得意であった。
 それゆえに出来上がったのが、この『ブラック・ジャック』という作品であると推察し得る。人気が出たのもうなづける。

 なお、「ピノコ」という登場人物は、中高生の女子に人気だったようだが、私はあまり良いとは思っていない。子ども言葉が強調されすぎているし、BJに対しての恋愛意識や嫉妬感情が過剰である。しかも、登場しすぎる。(2536)
posted by 矢島正見 at 01:12| 我流雑筆

2020年09月11日

菅義偉:追伸

 今、政治家は「イケメン」と「イケジョ」ばかり当選している。これが根本的に誤っている。国民が悪いのである。政治家にタレントのような顔はいらない。
 みるからに悪党という男や女が立候補し、国民はそういう人に投票しなくてはいけない。
 凄みを効かせて、「ガタガタ言わんと、俺に投票せえよ。それが日本のためになるんじゃ。」といった人物を。(2535)
posted by 矢島正見 at 01:31| 我流雑筆

2020年09月10日

菅義偉

 次期、自民党総裁は菅義偉氏に決まりでしょう。
 しかし、戦後の内閣総理大臣の中で、見栄えがしないということでは、ベスト3に入るでしょう。
 国内政治処理と与党内の調整と与野党間の調整ということでは、あの迫力ない顔つき・体つき・目つき、そしてぼそぼそとした口調でも、さほど問題ないと思うのだが、サミット等の国際政治の舞台では、どれほどの存在感が発揮できるのか心もとない限りである。

 今の時代、総理大臣は悪人面のほうがよい。その点では石破茂が理想である。あれはだれが見ても悪人面である。
 習近平と対面でもしたら、まさにかつての東映やくざ映画の悪の巨頭対決場面である。トランプも悪人面なので、三人が一堂に集まったら、三悪党揃い踏みとなろう。
かつての東映映画なら、阿部九州男、吉田義男、ピラニア軍団の志賀勝である。

 こういう悪人面たちと比べると、菅義偉はなんとも情けない顔であり、体つきでる。東映映画ならば、始まって10分以内に殺される役どころである。
 とにかく、彼の正念場は外交であろう。外務大臣か防衛大臣に石破茂を起用するか。

 なお、悪人面で貫禄があり、実にカッコよかった俳優は若山富三郎である。(2534)
posted by 矢島正見 at 15:50| 我流雑筆

2020年09月09日

『BRACK JACK』B C D

B無免許医師
 ブラック・ジャック(BJ)は医師の免許を取得していないもぐりの医師という設定になっている。これは、法律違反であり、逮捕され罰せられる。かっこいいのだが、いささか現実的ではない。

 「獅子面病」(第6巻)では、BJへの医師免許を権威ある医師たちが国家に申請するが、世界医師会連盟からクレームが付き、却下される。しかし、世界医師会は国際的ではあるが非政府組織である。そこからのクレームで日本国の厚生省(現・厚生労働省)が取り下げるとなると、これはこれで問題である。

 「報復」(第6巻)では、日本医師連盟(日本医師会の政治組織)会長がBJの医師免許を取得する。しかし、BJはその場で免許証を破り捨てる。
 この会長のモデルは武見太郎と思える。BJ執筆時の日本医師会の会長で、保険医総辞退・全国一斉休診(ストライキ)で脅して、厚生省を屈服させた。総理大臣や厚生大臣を屈服させて、BJに医師免許を与えることは、問題化したら大変だが、充分にあり得たかもしれない。(本人の申請がなくして取得できるのか、これはおかしいが。)
 なお、免許証を破り捨てたとしても、医師の資格免許がなくなるわけでもない。破り捨てることによって、資格取得の取り消しを要求したのであろう。

C医師免許
 そもそも、医師の免許は国家資格であり、試験に合格しなければ与えられないものである。
 その点、「古和医院」の物語は、整合性がある。最期の終わり方もすっきりしている。これは名作である。
 戦中から無医村にて医療を行ない、村人の尊敬を得ていた先生が実は無免許医だったという話である。昭和30年頃までは(もちろん戦前も)、こうした無免許医が実在していたのである。

 いっそのこと、BJは外国の医師免許は持っているが、日本の医師免許を申請していない、ということにしたほうが整合性があるのではないだろうか。
 つまり、ある国で医師の免許を獲得し、そこでは医師として高い地位を得ることが本人が望めは与えられるという設定である。
 ただ、何らかの理由で、たとえば、ある国の場合は国の政治体制が気にくわない、日本の場合は医学界や医療制度が気にくわないという理由で、ある国では医療活動をする気がなく、また日本では医師の免許を取得する意思がない、という設定である。
 そうならば、世界医師会連盟からのクレームは、その背後に潜むある国の国家権力が動いたということになる。実に整合性がある。

 なお、日本国の医師の免許は、必ずしも国際ライセンスになるとは限らない。BJ当時はなおさらである。日本の医師免許を持っていても、海外で医療活動をすればもぐりということもあり得る。

D顔の皮膚の色
 ブラック・ジャックは、子どもの頃大事故に遭い、身体中継ぎはぎだらけとなり、すさまじいリハビリで身体を克服したと設定されている。
 また、顔の皮膚の半分は日本人・クロオ(黒男)本人の皮膚であり、もう半分は日本人と黒人とのあいの子・タカシの皮膚である。
 そこで、皮膚の色が異なるという設定なのだが、カラーで見ても、色の異なりがよくわからない。顔にある傷の縫い目のみ目立つ。アニメ化されたようだが、それではどうなっているのだろうか。
 やはり、傷の縫合の左右で皮膚の色が異なるほうが凄みがあってよい。おそらく、若い女性からは受けが悪いだろうが。

 余談:その後しばらくして、アニメの『ブラックジャック』を観る機会に恵まれた。確かに皮膚の色が異なっていた。(2533)
posted by 矢島正見 at 00:58| 我流雑筆

2020年09月08日

『BRACK JACK』@ A

『BRACK JACK(ブラック・ジャック)』(全13巻)
(『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)にて1973年11月19日号から1978年9月18日号にかけて連載したのち、1979年1月15日号から1983年10月14日号にかけて不定期連載された。全242話。)
 またまた、手塚治虫である。

『BRACK JACK』@「医者はどこだ」
 『BRACK JACK』を読む。第1話は「医者はどこだ」。これが実に小気味よい。最後のどんでん返しが鮮やかである。そうなると、次も読みたくなるのは当然のことである。
 しかし、以前読んだ際の記憶をたどると、途中で、マンネリに陥っている。そりゃ、242話も描けばそうなるはずだ。50話で十分。それ以上は、人気漫画なので秋田書店が手放さなかったのであろう。
 質の低下はこうして始まる。

 なお、ここに登場するデビイ少年は漫画で見ると14・15歳の少年としか思えないが、舞台はヨーロッパのある国というのであるから、おそらく18歳以上の法的には成人であろう。さもなければ、この程度での死刑の判決は無理である。

A医学博士
 手塚治虫は医学博士である。したがって、医学的知識を駆使したストーリー展開となっている。これは他の漫画家では描けない手塚ならではのリアリティある展開である。もっとも、今ならば、医学の専門家の助言を得ての漫画となるであろう。
 その手塚でも、ストーリーでは、矛盾のあるところをうまくすり抜けて描いている。その典型が無免許医師である。(2532)
posted by 矢島正見 at 12:14| 我流雑筆

2020年09月07日

『どろろ』E

『どろろ』E
 数十年後、どろろは天下統一を目指す残忍な支配者となっている。モデルはもちろん斎藤道三と織田信長である。
 寺院を焼き、僧侶を殺し、公家を殺し、正義の武将・明智光秀を殺し(本能寺の変は失敗に終わった)、母を殺し、徳川家康を殺し、部下の柴田勝家・羽柴秀吉を殺し、逆らう者はみな殺しにし、天下統一のその直前に……?!。

 ふたたび、琵琶法師とともに百鬼丸が現れる。「ビローン ビロロローン 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり……」。
 それこそ、タイトルの「どろろ」が生きてくる。

 なお、物語の構成は、
《 第1話 百鬼丸の誕生 / 第2話 第一の妖怪 / 第3話〜第12話 第二の妖怪から第十一の妖怪 / 第13話 最後の妖怪 / 第14話 父の末路 / 第15話 三十年後の対決 》
である。(2531)
posted by 矢島正見 at 13:04| 我流雑筆

2020年09月06日

『どろろ』C D

『どろろ』C
 私が物語を構想したならば、最後にして最大の妖怪を母親にする。
 野望を抱き、生まれた我が子を12体に切り刻み、12の妖怪に与えた父親の背後に隠れていた妖怪が本性を現すのである。
 父親の狂気・邪気は母親に操られていたに過ぎないことが、ここでようやくわかるのである。(私が子どもの頃だったら、ここで「カッコいー!」となる。)

 最後の対決は、妖怪である母親との対決となる。魔王と取引をし、11の妖怪を操り、父親を操り、この世を地獄にしようとした12番目の巨悪な妖怪との対決である。
 壮絶な戦いが展開される。ときには「ぼうや」などと囁き、百鬼丸の闘争心を剥ぐ。
 母親の妖怪の爪が百鬼丸の心の蔵をつかみえぐり取ろうとする、その瞬間、百鬼丸の妖刀が母親の妖怪の腕を切り裂く。胸に突き刺さったままの腕が残る。
 「酒呑童子」の場面を黒澤明が映画化したらこんな風に描いたであろうという、想像で描く。

『どろろ』D
 百鬼丸が母親の妖怪を殺した後、父親は狂気から覚め、すべてを失い、城を焼かれ、農民から虐殺される。まさに黒澤明の『蜘蛛巣城』である。いや、それ以上である。

 百鬼丸は、目的を果たすと同時に生きる意味のすべてを失い、無用となった妖刀をどろろに与える。そして、盲目の琵琶法師とともに、何処へともなく去って行く。
 しかし、まだ続く。(2530)
posted by 矢島正見 at 13:10| 我流雑筆

2020年09月05日

『どろろ』A B

『どろろ』A
 どうも気にくわないところがある。「ばんもんの巻」で、百鬼丸が実の父親と母親に遭うのであるが、生まれてすぐバラバラに切断され、川に流された子とその母親が、遭ってすぐに、直感的に我が子・我が母など思うわけがない。
 ところが…、
「ぼうや」―「遠いむかし どっかで 見たみたいだ…」―「おばさんは… お お おれのかあさん?」―「ぼうや」……
なんてのはまったくいただけない。1950年代の少女漫画もよりひどい。名画『安寿と厨子王』の最後の場面と比較すると雲泥の差である。

 SFというジャンルはあり得ないことを描くのであるから、その他のことは現実性が他のジャンルよりもきちんとしていなくてはならない。
 どうもその点、手塚のヒューマニズムは邪魔をしている。生まれたばかりの母と子が離散して、数十年ののちに、遭った途端、直感的に〈親子〉を互いに認識するなんて、どんな科学でもあり得ない。
 それこそ “ま・ん・が” である。たとえ少年漫画であっても、この場面は失格である。

『どろろ』B
 今一つ、最後がどうもすっきりしない。竜頭蛇尾といった感が免れない。
 連載が週刊誌の『少年サンデー』から月刊誌の『冒険王』に移ったのだから、時間的には余裕ができたはずなのに、手抜きになっている。48の妖怪を殺さないで終わってしまうところなど、完全な手抜きである。

 思うに、『アドルフに告ぐ』のような、完璧にはじめから構成されて描かれた漫画は少ないのではないだろうか。『鉄腕アトム』にしろ、『ブラック・ジャック』にしろ、この『どろろ』にしろ、長編漫画は、えてして、漫画の構成の基本設定があるだけで、掲載をスタートさせていたのだと思える。よく言われるところの「新聞小説」の類である。

 最初からストーリーが構成されていたのであるならば、48の妖怪は多すぎる。
 48の身体をバラバラにしたらどうなるのか。最初の百鬼丸は芋虫のような躰をしていた。無いのは、左右の脚・足、左右の腕・手、髪、左右の目・耳、鼻、唇、もしかしたら男性性器(いわゆる「チンコ」と「キンタマ」)といったところか。それでも48には足りない。まさか、足の指・手の指も一本ずつ含めるのだろうか。いささか無理がある。
 ここは12ほどの身体部分にしておくべきであった。そして12の妖怪との対決にすべきであった。(2529)
posted by 矢島正見 at 02:15| 我流雑筆